三十六日目 初めての訪問
マンション内のフロントから三方向に加えて広場に繋がるドアの内、一番右手にあるものの前でもう一度鍵を開ける先輩。
待っている間、鏡の窓から広場の方を見れば、子供たちが楽しく遊んでいる。近くに警備員がいることから安全性も考慮されているのだろう。多少の遊具もあるようで敷地内で十分楽しめるというのは親御さんからすれば助かっているんだろうな。
「ああいうさ、子供たちがニコニコして友達と遊んでいるところって見ているだけで和むよね」
俺の視線に気付いたのか先輩ははにかんだ表情を浮かべ、小さな滑り台に穢れのない笑顔でいる小学生にちょうど満たないぐらいの子供たちを見つめている。その横顔につい俺の目が奪われてしまった。
御歳が今年で二十七歳だからお子さんがいる場合も考えられるわけで、当然そういった事実はないのだけど、あまりにも優しさに溢れているものだから。
「ん? どうしたの?」
あっ、気付かれちゃった。
「いえ、なんでも。いいですよね、ああいうの。俺、子供好きなんで心が温まります」
「良いよね。あと、この時間に帰宅している優越感もいい感じだよ」
「ハハッ、たしかに普通に考えたらありえない話ですからね。学生の頃にもそういうの感じたことありました。午前授業中とか受験前の特別休日とか」
「あー、わかるわかる」
そう言って笑ってくれる先輩の姿を見ているとそれでまた心に温もりを感じられる。
子供たちの声が丸々漏れて聞こえてくることがない構造で静かだからか、まるで二人きりのような雰囲気を味わえて最高だ。
このままここで談笑することを俺はおすすめしたいが会社にいないとはいえ仕事を持ち帰っている。開かれたドアからマンション内に入っていき、大人しくエレベーターに乗った。
そうして先輩が押したのは十二階。俺の家の四倍もの高さ……はさすがに馬鹿の計算だな。まあでも、それぐらい高い位置に部屋を持っていることが凄い。俺には程遠いものだ。
「あー、なんだか緊張するなぁ」
「緊張するようなことある?」
二人だけのエレベーター内で先輩にクスッと笑われる。
いやいや、俺からすれば絶対にミスしたくない展開だから! ここがひとつの分岐点といっても過言ではない。俺の恋路にとっても、もちろん企画案にとっても。ていうか、二人きりで箱のなかに閉じ込められているようなこの場所で、顔を注視出来ないためにこれまであまり意識したことのなかった香りにどうしても意識を持っていかれる。
普段からあまり強い香水をつけていない先輩だが、今日は柑橘系、多分グレープフルーツのものをつけているんだと思う。甘ったるい香りが好きじゃない俺からすれば、好みまではいかないけれど、嬉しい香りだ。
「先輩の家ですからね。子供の頃友人の家に初めてお邪魔するときとかしませんでした?」
「まあ、わからなくもないかな。何事も初めては緊張するものね」
「ですです。妹さんがいないのが唯一の救いというか、いらっしゃったらさらに緊張していたかも」
「わかるー。友達の家族にどうみられるかって気になるよね。私の歳になるとさらに気になってくるよ。大人としての振る舞い的な部分で」
たしかに、とは言わないよ。まだ肯定するには早い年齢だし。三十路越えてたら男女問わず大人としての振る舞いは必要なスキルになってくるから突っ込めるんだけど。
「それで言うと、俺も今から先輩みたいに、できる人にならないとなー」
「今でも十分でしょ。私だってすべてが全て完璧ってわけじゃないから」
そんな話をしていたらお待ちかねの十二階に着いた。
エレベーターから出て先輩の後ろをついて行くわけだが、見えてきた廊下がもう広い。しっかり二人分の猶予がある。それに扉の感覚が長いんだわ。一部屋の大きさを表しているように。
目的の扉は案外すぐにやってきた。さすがに角部屋ではないみたいだ。
先輩が鍵を開け、どうぞと先になかに入るよう招かれる。一歩一歩踏みしめるようにその先に向かう。
唾を飲むほどに自分が硬くなってきていることに気付いた。怖いなー。
「お邪魔します」
そう言って綺麗に靴の並べられた玄関に足を踏み入れた瞬間、嗅いだことのある香りがすっと鼻を抜けていった。
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