五十三日目 傍に寄ってあなたを感じたい

 自称、先輩ともっとお近付きになろう作戦第二弾、先輩の好きな香りで興味を引こう! 監修、花宮はるかでお送りしていくわけだけど、思えばレモンの香りが好きだというのであれば俺たちの家に呼んだとき、ディフューザーで部屋に流していた香りは柑橘系という分類ではあながち間違っていなかったのか。たしかグレープフルーツだったし。

 それならば、既にアドバンテージを得ている可能性がある。この有利を活かさずして先輩の心を振り向かせようとするのは愚策だろう。使えるものはなんでも使っていかないと。


「先輩、休憩いただきました」


 一般的な会社ではあるが、基本ペアで動くことが多い新人たちはこんなふうに先輩社員に一言報告して休憩に入ったり、戻ったりする。そういった些細なことでも共有した方が良いといった意識を生ませる意味も含まれているらしい。

 このおかげで一日に二度は先輩と話す機会ができるのは素直にありがたいところだ。

 ちなみに基本自由性の高い会社だなと個人的に思うのに、唯一納得がいかないのは私服で出勤できないところ。恐らく理由として挙げられるのは事務関連であれど、報告会議であったり今回のような企画会議がそれなりの頻度で行われるからだろう。前者に至っては基本週一回のペースで行われているし。だから、納得はいかずとも提案できるような状況ではない。

 それにまぁ、スーツ姿というのも美しさ際立つ先輩には関係なく似合っているしな。


「もうそんな時間なのね。一応通常業務は終えたから、私が休憩に行っている間に企画案をまた考えておいてね」

「わかりました!」


 距離は十分香りが飛ぶぐらいの近さだと思うんだけど、反応はない。男の俺から急に先輩の匂い、いいですね! というふうに詰めるのはただの不審者でしかないが先輩側からなにか香水でもつけたの? ぐらいの問いはあってもいいと思うの。前髪を1cm切ったよりは段違いに気付きやすい要素だと思うし。


「じゃあ、私は上の休憩室にいるから、もしなにか聞きたいことできたらメッセージでも送っておいて」


 そう言って、先輩は珍しく弁当箱を出してきた。どこかで見たことのある包みと共に。


「先輩、今日はご自分で昼食を?」

「ああ、これ? 実はね、これまで一緒に住んでいた妹が大学の先輩の家でルームシェアすることになったから、最終日の今日は特別にお弁当を作ってくれたの」

「どうりで」


 俺が貰ったときのものと同じわけだ。この情報は決して明かすことのできないことだけれど。

 もし、その相手が俺と知ったら先輩はどんな反応を見せてくれるのかな。今の関係値であれば、驚きはしても特に言及してくるようなことはないか。ちょっと嫉妬してくれるぐらいには好かれたいなぁ。

 それにしても、悠のことを話していたときの寂し気な表情は純粋に彼女に対して家族愛を抱いていたからだろう。悠の憎いという言葉からして、一方的なものになってしまってはいるが。


「まあ、そんなわけでせっかくのお楽しみが待っているから私はもう行くね」

「どうぞどうぞ」


 本当はなにか適当に話題を出すことで意識を向けたかった。でも、今先輩をここに留めようとするのは悪印象になりかねない。

 部屋から出ていく先輩の後ろ姿を眺める俺の顔にはなんともやるせない思いが溢れ出ていただろう。



 ◇◇◇◇



 一時間後、休憩を終えて帰ってきた先輩は包まれた弁当箱をバッグのなかに戻して俺の方を向く。食事時に取れてしまったのか、口紅がまた綺麗に塗り直されていることに気付きはしたが特に口にはしない。


「お待たせ。それじゃあ、まずはこの間に出来た企画案の方から見させてもらおうかしら」

「はい、既にフォルダの共有は済んでいますから確認して頂けたら。待っている間、先日添削して頂いた企画案の見直しを行っておきますね」

「あらっ、用意周到ね。これなら今回の会議が終えた頃には私はもう用済みになっちゃうかな?」

「いやいや! 全っ然ですよ! もっと先輩の近くでいろいろ学ばせてほしいです!」


 冗談めかして言ったつもりかもしれないけれど、今の俺にとっては決して流せるような話ではなくてつい前のめりに返事をしてしまった。

 先輩は面食らったように口を開けたままでいる。

 どうしようか、なにか俺から話しの続きをしないと。空気を戻せるなにか……っていっても、話題なんて香水のことぐらいしか、いや、それでも何か変わるかもしれないし、とりあえず誤魔化してみよう。


「まあでも、多少は巣立ちの準備をしないとはいけないってわかってるんですけどね。そういえば、先輩の近くでってことで今日お気付きになられたかわからないんですけど、俺が付けているこの香りどうですかね?」


 なにがそういえばなのか自分でも全く展開の脈絡がないとはわかっている。でも、そこを気にして言葉に詰まってなんかいられない。

 それに先輩は表情こそ作りきれていないけれど俺の勢いの良さに押されてそ、そうねと口を開いてくれた。結果としては間違っていなかったということだ。


「ちょっと腕、伸ばしてくれる?」

「あっ、どうぞ」


 多分、手首あたりで確認するのかな。悠も香りを意識させるために付けてくれていたから好都合だ。

 俺の伸ばした右腕に先輩の鼻が近付き、小動物みたいにピクピクさせる。正直、この光景を眺められただけで条件付きで教えを乞うた価値があったといっても過言ではない。


「うん、いいわね。私は好きよ、この香り」


 普段は殆ど見ることのできない先輩を見下ろす感覚を堪能していたら、これまた珍しい先輩から見上げられるというシチュエーションが完成した。気持ち悪いことを考えているのは百も承知だ。でも、心のなかでは好き勝手しても許されるだろう。誰かに見られているわけでもないし。

 それから先輩の反応はいいぞ! 身体を引きはしたけれど、表情に一瞬でも眉を顰めるような素振りはなかった。


「先輩にそう言ってもらえて良かったです」

「どうして?」

「いやぁ、実はこういうものを使うこと自体初めてで、なかでも一番気に入った香りだったので」


 初心者であるということをしっかり伝え、知ったかぶりは絶対にしない。それとお気に入りの香りであるとアピールも忘れずに。


「わかるよ、その気持ち。どうしても気になっちゃうよね」


 先輩の話す口調は明るい。この流れを絶やさずに。


「はい。特に身近な人には嫌われたくないですし」

「うんうん。だから私、いつもはあまり付けてこないんだけど、いい機会だし、一番最近で買ったの明日持ってこようかな」


 この流れは⁉


「良かったら棟永とうながくん、試しに匂い嗅いでみてくれない?」


 来たぁぁぁあああ! これは先輩のプライベートに一歩踏み込めたのでは⁉ しかも新品のお試しだ。他の誰もまだ経験していないものかもしれないなんて……最高です。


「なにもそんな拳を突き上げるようなことは起きていないけど。それで、どうなの? いいの?」

「もちろんです。俺自身の勉強にもなりますから」


 ここで勤勉さを出すのは第一弾のダメ男作戦に反することにはなるが、これはもう諦めたほうが良さそうだと判断を下したから構わない。自分を否定しすぎるのは精神衛生上よくないし。


「じゃあ、お願いね。さっ、談笑はこれぐらいにしてちゃんと企画の方、取り組むよ」

「はい!」


 とりあえず、第二弾は上々の滑り出しなんじゃないだろうか。

 これは帰ったら悠にそもそもの条件とは別のお礼をあげなきゃ。更なる成功を呼び寄せる意味も込めてね。

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