五十四日目 若々しい奥様
悠から貰った香水で先輩との友好値を多少獲得した俺はその後、無理に距離を近付けることはせず、先輩宅にお邪魔した際大まかな枠だけ決めた企画案のうち、二つをしっかり形にした。
これまでなら基本的な勤務時間に加え、残業も厭わない覚悟を持って企画案をさらに作成していただろうがもう俺一人だけの家ではない。先輩には自宅で考えてくると説明し、今は帰路についているところ。
「さて、今回の想定以上の成果に対する報酬はなにがいいかな」
サプライズするほどのことでもないので無難に連絡。その返事はケーキが欲しいというものだった。そのため、駅から降りた後店に寄り、三種類のカットケーキを手に持ち帰宅する。
鍵は悠が使っているのでインターホンを押す。この新鮮さはまだ抜けない。
それに部屋の明かりが漏れ出て人の気配を感じられるのは安心感がある。いつも夜の暗さが続いているだけだったから。
「おかえりなさい、お兄さん」
「ただいま」
以前、野球観戦の前日に泊まりに来た際も着ていた半袖のパジャマワンピの姿で今日も悠は可愛さを振りまいているわけだが、その対象が俺しかいないことが残念だ。ただその唯一の権利者である俺にとっては、先輩への緊張から疲れの蓄積している心を癒してくれる女神に見えているのだけど。
「これ、言ってたやつ」
そう言い、手に提げていた箱を見せると悠は瞳を輝かせて受け取った。
「ありがとうございます!」
「こちらこそだよ。夕食の後、一緒に食べよう」
「ですね! 私はおかずを今から作るので先にお風呂、どうぞ」
悠は既に慣れた手つきで俺が下ろしたリュックを持ち、俺の部屋まで向かおうとしている。止める理由も特にないのでここは任せて、俺は着替えを取り出そう。
そうして彼女の後を追い、部屋に入ると見るからに散らばっていたものが元の場所に戻されていた。
「もしかして、これ悠がやったの?」
驚き、すぐに問う。しかし、そんな俺に対して落ち着いたようすの彼女はそうですよと淡々と答えを返してくる。ただ数秒の後、なにかを察したのか、あっと声をあげて申し訳なさそうな表情をこちらに向けてきた。
「お兄さん、自分のもの誰かに触られるのって嫌でした?」
「いやいや、そんなことないよ! 今聞いたのはびっくりして咄嗟に出ただけで、他意はないから」
俺の言葉にホッと胸をなでおろす姿を見せられるとあまりにも気遣いに満ちた姿に感動しちゃうよ。
「良かったぁ。あっ、でも綺麗にしたのは見た目だけで直し場所の見当がつかなかったものはあちらの隅で纏めていますから」
「ありがとう。それでも助かるよ」
感激のあまり、つい褒めようと彼女の頭を撫でてしまう。
やばっ、やらかしたかな。普通、嫌だよな。
心配になり、悠の表情を恐る恐る確認してみるが先ほどよりもニコニコしているように見えた。いやまあ、そう思いたいだけだろうが、とにかく嫌がっている素振りは微塵もないように思える。
「えへへ、これじゃあご褒美の過剰摂取ですよ? いいんですか?」
この言葉からも無理して我慢しているなんてことはなさそうだ。
「むしろ足りないぐらいだよ。地味に散らかった部屋を帰宅後すぐ目にするのは精神的に落ち込まされるから凄くありがたかった」
「本当ですか? それならこれからも続けますね!」
「それはもちろん嬉しいけど、悠が無理をしないようにね。面倒なときはしなくていいし、飽きたらやめていいから」
「お兄さんならそう言うだろうなってわかってますから安心してください。それより、ここでこのままずっと話していては何も進みませんよ。早くお風呂に入って汗を落としてきてくださいね」
そう言い残し、リュックを置いた悠はケーキの箱を持って部屋から出ていった。
なんだか本当に同棲している年下の恋人みたいだな……それもかなり面倒見の良い。恐らく、先輩と同居していた時のままで習慣化されているんだろう。
そんなことを思いながらスーツを掛け、着替えを持って風呂に入る。今日はいいことずくしゆえに、悠がいるのもお構い無しに鼻歌なんか歌っちゃって、とにかく気分が晴れ晴れとしている。
二十分後、髪をドライヤーで乾かし終えリビングに向かえば、扉は閉められているがなかからは中華のピリッとした香りが漏れていた。それに食欲をそそられ、腹を鳴らす。
期待を込めて扉を開けると、丸テーブルには皿一杯の麻婆豆腐があるではないか! もちろんそれだけでなく、小皿に盛られたサラダやお味噌汁もある。
「ごめんね、待たせちゃって」
「問題ないですよ。それより、どうです?」
「もちろん凄く美味しそうだよ! さあ、すぐにでも一緒に食べよう!」
本当はここでビールでもグイッと流し込みたいところだけど、今日はまだ我慢して悠の注いでくれた水を一杯すぐに飲み、火照った身体を冷やす。
それから手を合わせ、共に夕食を済ませた。その最中、ずっとテンションの高い俺を見ていた悠は幸せを噛み締めるかのような優しい笑みでいたのを俺は忘れない。
そこにはこれまでのような嘘に塗られた姿などなくて、純粋な感情のままが現れていたように思えたから。
「ふぅ、ごちそうさま」
並べられていた食器のなかは全て空になり、早くも悠がキッチンまで運ぼうと立ち上がる。その後に続き、せっかく作ってくれたのだから片付けは俺がと、スポンジを手に取る。
ありがとうございますと彼女は言って定位置となっている座椅子に深く座り、テーブルを拭いた後はスマホを触り始めた。
「そういえばさ」
そんな彼女に背を向けたまま話しかける。
「香水、上手くいったのは軽く連絡しておいたと思うんだけど、次は何がいいかなー?」
他力本願になってしまうのは自身の成長を妨げる要因となることを理解しているけれど、何より確信的な情報を持つ悠に頼らない選択肢を取ることは無謀だと考えそう発言する。
「んー、どうですかね。私も情報の更新をしたいですし、失敗には導きたくありませんから、一旦ここでお兄さんらしくアピールしてみるのはどうですか?」
ゆえに、その返答に胸が痛む。
そうだよな、結局自分らしさを理解してもらわないとその後に繋ぐことは出来ないよなぁ。でも、どうしたものか。
そんなとき、スマホがブルブルと震えた。どうやら通知が来たみたいだ。相手は……先輩か。
『明日、そっちお邪魔すること出来ないかな?』
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