五十八日目 立つ鳥跡を……
結局、悠からの返信が来る前に荷物を持ち、今日は退勤することになった。とはいっても、これから楽しい楽しい自宅勤務があるのだけれど。
先輩と二人で社員証をレコーダーに読み込ませ、駅から俺の最寄り駅までは静かに、それからアパート前までは質問攻めにされた。
一人暮らしを始めたのがいつぐらいからだとか、お母さんはどの頻度で来るのかとか。いろいろと考えて答えるのは疑念の種を植え付けてしまいかねないので、なるべく素早く事実を述べていったがこれが吉と出るか凶と出るかは俺には分からない。
とにかく良い雰囲気を崩すことなくここまで連れてこられたことを褒めてやって、自分自身を鼓舞していこう。
「前は夜であまり気付かなかったけれど、綺麗なところね」
アパートを見上げ先輩がそう呟いた。
たしかに築年数は二十年近くだったと思うけれど、それにしては綺麗なほうだと思う。もしかしたら俺が住む数年前に外観の塗装をし直していたのかな。
この光景がデフォルトの俺にとってはあまりそういう意識がなかったから気付かなかった。なにせ、汚いよりかは印象も良いことは明らかで助かった。
「ですね。俺も初めてだからすこしでも過ごしやすさを求めて借りたので気に入ってますよ」
「懐かしいなー、その感覚。私、基本的になんでもいいやって考えちゃうところあって、自分で決めたところを家族が心配だからって見に行ってくれてね。そしたら、壁としての役割を果たしているのかってぐらい隣の音が聞こえてきたみたいで、別の場所に変えたのよね」
「面倒見の良いご両親なんですね」
「本当にね。今住んでるところも妹が選んでくれたし、プライベートなところは案外家族に決めてもらってたかも」
はぁぁぁぁぁぁエピソードトークありがてぇ。
最高の保養ですわ。
このままここで話を続けていたら心が腐っていくような感じがしたので一旦階段を上がる。この煩わしさだけ先輩に申し訳ないなと思ったけれど、それさえもいい運動になるじゃないと褒め言葉で返してくれるのだからもっと好きになってしまう。
「さあ、この奥の部屋が俺のところ、です」
指をさし、先輩に場所を示すと同時にそちらに顔を向けたがためにそれに気付くのが遅れてしまい、すこし言葉の区切りがおかしくなってしまう。だって、優梨愛がお隣さんの部屋の前でタバコをふかしながら待っているだなんて誰も想像できないじゃないか。
これはどっちだ? 偶然優梨愛がお隣さんに用事があって来ているパターンか、悠が何かしらの意図を設けて仕向けたパターンか……いやいや、さすがに後者は有り得ない。
もしそうだとして、その意図がなにも思い浮かばないのだから。であれば、本当に運悪く優梨愛がいるということになる。
これだとまるで優梨愛の存在が不都合みたいになるけれど、そういうわけじゃなくて、ただ彼女の口から悠という単語と俺を結びつけるような台詞が漏れてしまう危険性があることが問題なんだ。
悠も彼女によって計画に穴を開けられたようなものだし、不意にという事態が起こり得る。
どうする、どうする? 知り合いの体で話して先に先輩になかに入ってもらい、優梨愛に事情を説明するか? それとも軽く会釈するぐらいで済ませ過ぎ去ろうとするか?
「
「えっ?」
やばい、本当はそのさらに奥の部屋を指したはずなのにその間に優梨愛がいることでまるで彼女を指しているように見えたんだ。
「ああ、いえいえ! その奥にもう一部屋あって、そこが俺のです」
「びっくりしたー。もしかして彼女さんと居合わせちゃったのかと思ったわよ」
「そんなわけないじゃないですかー。嫌だなー」
焦っているせいでさっきより声が大きくなっていることが自分でもわかる。嘘は何もついていないのに何かを隠そうとしているということだけが表に出てしまっているような、そんな感じ。
先輩にこれ以上優梨愛のことを聞かれるのもまずいし、そこに彼女が加わることも面倒だ。とにかく突き進んで先輩に先になかで待ってもらう選択を取ろう。
「ほらっ、行きましょう」
強引に会話を断ち、ぐんぐんと前を向いて進んでいく。
会話が聞こえていたのだろう。優梨愛もこちらに気付いているみたいだ。タバコの煙がかからないよう身体を外に向け、ちらちらと横目で俺の反応を待つように立っている。
これは先輩を部屋に入れたのち、話せば状況を理解してくれそうだぞ。
「こんにちは」
「どうも」
あくまでただの顔見知り同士。そんなふうに見える短い言葉の返し。
「そうだ、お隣さんって今いますか?」
そこから敢えて優梨愛の背をすこし過ぎたところで足を止め、話しかける。
「いえ、どうやら留守みたいで。なにか
「度々すみません」
よしっ、ここまでいい流れ。
先輩もさすがに俺のプライベートな会話だからか入ってこようとはせず、静かに話が終わるのを待っている。
優梨愛は優梨愛でなにかしらを察してくれたのか、それとも悠から先輩の顔写真でも見せてもらっていて気付いたのか話を合わせてくれるみたいだ。なにより先輩と優梨愛が顔見知りでなくて本当に良かった。
「先輩、申し訳ないんですけど、鍵を開けるので先になかに入って待っていてくれませんか? 荷物は適当なところに置いていてもらって構いませんから」
「わかったわ。それじゃあ、私はお先に失礼します」
先輩の会釈に優梨愛も返し、俺が今日は会社に持っていった鍵を取り出して扉を開ける。ダイニングからすこし漏れているアロマの香りが漂い、気分の良い空間が出来上がっているのを確認して先輩をなかにいれた。
一応洗面台やお手洗いの場所を伝え、言った通り数分待ってもらうようお願いして部屋から出る。そのすぐ先で心底愉快だというような悪戯な笑みを浮かべた優梨愛がタバコをまたふかし始めていた。
「すみません、それでさっきの話なんですけど」
先輩に声が届かないとも限らないので顔見知り同士の言葉遣いは残しつつ、手でこの場から離れるよう伝えると彼女もすぐに理解してくれたようで階段の方へ歩き始めた。
「ふふっ、さすがに私も驚いちゃった」
「本当助かったよ。話、合わせてくれて」
「まあ、一方的に顔はあの子から教えてもらっていたからね。それに
悠め、いらないことまで喋っていたのか。いや、まあそのおかげで助けようとしてくれたんだろうから結果としては意味を成していたのだけど。
「それで、今日は本当にお隣さんに用事があって来ていたの?」
「うん、それは本当。ただ元々今日は用事があるって話を聞いてたの忘れてて、ここに着いてから思い出したものだからどうしようかなって、ストレス発散のためにタバコ吸ってたら清史たちが来た感じ」
「なるほど。お疲れさまだな」
「まあ、車で来てたのが不幸中の幸いかな。帰るのも面倒じゃないし」
とりあえず、堂々と話している様子から嘘をついているとは思えない。
ここは悠との線を疑う必要性はないだろう。そもそも、悠になにかしら言われているにしては一切行動を起こしていないし。
「それなら良かった。とにかく気を付けて帰りなよ。じゃあ、俺は仕事も兼ねたお楽しみが待っているから」
「はいはい、弥咲もいないことだし、羽目を外しすぎないようにね」
そんな下の話をして階段を降り去っていく優梨愛に呆れた溜め息をついて見送り、部屋に戻るため歩いていく。そんな余裕あるわけ無かろうがと先の言葉に心のなかで突っ込みながら。
そういう雰囲気になる云々より前の段階だとは認めたくはないけど、認めざるを得ないのが何より悲しいところだ。
「よしっ、ここから一丁頑張りますか!」
手を叩き、声とともに気合いを入れて玄関の扉を開ける。
てっきりダイニングで待っていると思っていた分、荷物を持たず、スーツも暑さのせいか一枚脱いでワイシャツ姿の先輩がそこに立って待っているとは思ってもいなかった。それにまるで金の斧に出てくる女神様のように右手に青の歯ブラシを、左手にピンクの歯ブラシを持っているのだから驚きは一際大きい。
そのせいで反応できずに立ち尽くしていた俺の目をしっかり見据えた先輩が口を開く。
「やっぱり彼女さんと同棲しているんだ」
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