七日目 通い妻からでも始めたい

 今日からまた出勤。騒がしい目覚ましの音に瞼を上げ、ゆっくりと身体を起こす。


 カーテンの隙間から挨拶をしてくる陽の光は眠気の残る目には少々眩しい。ここまで鬱陶しいと梅雨入りが早く来ないか願ってしまう。スマホで一週間の天気予報を確認してみても殆どがニコニコしやがる太陽たちばっかで全く晴れ晴れしくない。


 それから洗面台で顔を洗い、インスタントの味噌汁と昨日の残ったご飯で作っておいたおにぎりを食べながらニュースを数種類スマホで確認していく。スポーツからエンタメ、経済まで幅広く目を通して頭に入れておくだけでも話のタネになるから損はない。


 うちの会社は基本玩具を扱う店の事務所みたいなもの。昨夜先輩が言っていたように売り上げをまとめたり、そこから傾向を模索したり、仕事内容としては基本パソコンと向き合っていることが多くて楽……なはずなんだけど、俺は本当に下手だから何とも言えない。


「ごちそうさまでした」


 いつまでも感謝は忘れずに。手を合わせ食器をシンクで水につけたあとは服を着替えてリュックを背負い、軽く髪をセットしたら準備OK。


 このまま出たらちょうど九時前に着くことができる。玄関の鏡で一応崩れているところはないか最終確認を済ませ、扉を開けた。この時間は誰も出ていないから静かで好きなんだよね。お隣さんも……あれ?


「どうしたの、優梨愛ちゃん」


 いつも通り大学に向かっているから音が聞こえてこないと思っていたら、まさか優梨愛ちゃんがいるなんて。お隣さんの部屋の前でスマホを見ながら待っているみたいだ。

 今日は以前出会ったときみたいな可愛らしさ重視の服装ではなくて、涼し気な白のワンピースにカーディガンを合わせた姿で清らかな印象を持たせている。


 当然のように目を惹かれていたらあちらも俺の声で存在に気付いたみたいだ。


「あっ、お兄さん、おはようございます。今日は未鷹くんにとあるものを渡そうと思って来たんですけど、全然出てこなくて」

「あー、多分もう出たんじゃない? ていうか、大学内で渡せばいいのに」

「それはそうなんですけど、その、渡したいものがこれで……」


 そう言って持っている麦わらのバッグから取り出したのはシックな大判ハンカチで包まれた弁当箱。


 なるほど。お隣さんは大学内で人気者なところから考えると、たとえ彼女とはいえ、見せつけるような行動は咎められる可能性があるということか。面倒だけど、そう易々と周りが引き下がってくれるほど恋愛は楽じゃないからな。


 そこで敢えて自分が一番だと主張するような心の強さも時に必要なんだろうけど。


「理由はなんとなくわかったよ。にしても、優梨愛ちゃんは何時に大学にいるとか家を出ているとか知っているんじゃないの?」

「たしかに把握していることは多いですよ。でも、なんでもかんでも知られているのって束縛じゃないですか。前に傷をつけ合える関係がいいとは言いましたけど、束縛はそれとは違いますから。それに学科も異なりますし」

「そういうことね」


 言われてみればスケジュールの把握をされていることは当然のようになっている気がする。浮気や不倫をしないという信頼関係が形成されているのなら不必要なことではあるのに。ただ、お隣さんの場合はもはや把握していても仕方ないという意味合いの可能性が高いかもしれない。


「じゃあ、俺も仕事に行くから前みたいに待ち過ぎないようにね」

「あっ、ちょっと待ってください!」


 優梨愛ちゃんの横を通り過ぎようとしたらスーツの裾を引っ張られた。


「あの、もしご迷惑じゃなければ、このお弁当持って行ってくれませんか?」

「ん? どうしてそうなった?」


 つい意味が分からない展開に声が出てしまう。


 だって、俺に渡す意味はなくない?


「えっと、このままあっちに持って行って渡すのも面倒ですし、かといって自分の分はありますし、友達に食べさせるのもなんだか気を遣わせちゃうじゃないですか」

「だからちょうど良い関係ぐらいの俺が選ばれたってわけ」


「ダメですか? もしお気に召さなかったらそのまま返していただいても構いませんから」

「いや、ダメってことはないけど、返すって言ったってまた優梨愛ちゃんがここに来るの?」

「ですです。このまま捨てるよりかは誰かに食べてもらった方が嬉しいので、お願いできませんか?」


 うーん、そんな綺麗な瞳で見上げられたら断りづらいなぁ。


 別に人のつくったものが苦手というわけじゃないし。


 ただ、普段からコンビニ飯や休憩室に置いてある会社が用意してくれた総菜を食べることが多い手前、急に弁当なんかを持っていくと特にそのことをよく知っている先輩になにかしら疑われそうで怖いっていうのが理由なんだよな。


 下手に勘違いされちゃうと俺が先輩にアプローチしたいときに話がややこしくなることも考慮しなきゃだし。


 でも、やっぱりこの視線、強力だよ……断ったら泣いてしまいそうな勢いで瞳に潤いが増してきたし、ちらりと確認するように見ようとした一瞬で目がしっかりと合ってもう離れてくれない。


「わかった、わかったよ。ありがたく頂きます」

「本当ですか? ありがとうございます!」


「まあ、中身見てないけど優梨愛ちゃんがつくったものなら美味しいだろうから」

「ふふっ、ぜひぜひ召し上がってください。それじゃあ、私も大学の方に向かいますから」

「ああ……」


 そうして優梨愛ちゃんは陽気にTGの応援歌を鼻で歌いながら階段を降りていった。


 今日、何時に終わるのか分からないから明日の朝に洗って返すと伝えようとしたが遅かったな。まあ、MINEを知っているから後で言えばいいか。

 俺もこのままのんびりしている暇はない。資料の入っているファイルに気を付けてリュックのなかに弁当箱を仕舞い、駅に向かった。



 ◇◇◇◇◇◇



 ギリギリ電車に間に合って無事九時前にレコーダーに社員証を読み込ませることに成功。先輩はまだ来ていないみたいだ。机の上には俺が置いて帰った資料が残されたまま。


「おはよう、棟永とうなが!」

「あっ、おはようございます、皆山みなやまさん」


 珍しい人が声をかけてきた。


 あれか、金曜日に先輩と飲みに行ったからって俺に自慢しにきたのか。皆山さんは先輩の同期のなかでも一番明るくて元気ってイメージだし、わざわざそんな話するような人には思えないけど、これまでほとんど話したことなかったのに今来る理由がそれぐらいしか思い浮かばない。


 ちなみにスーツを着ているからなのかそれともスーツなのにと表現した方が良いのかわからないほど全体的に筋肉がついていて体格が良く、スポーツ経験者だということが見て取れる。


「今日さ、お昼空いてる?」


 えっ、急なお誘い過ぎないか? 何も情報が無くて怖さしかないんだけど。


「なにかありましたっけ?」

「いや、まあ、なんていうか話がしたくてさ。ちょっと棟永についていろいろ聞いたから」


 あれ、俺なにかやっちゃいました? 


 怒られる前兆みたいな雰囲気が……。声色が明るいのも何故か感情の裏返しのように感じてしまう。しかも担当の先輩じゃなくて皆山さん直々にとなると、知らぬ間に大変なミスを犯していたんじゃないだろうか。


 これはちゃんと話を聞かないといけないな。


「わ、わかりました。皆山さんは何時頃空いてますか?」

「ん? 俺はいつでもいいぞ。だからさっきも聞いたんだ。おまえに余裕のありそうなところの方が都合がいいし」


「それなら昼休憩を取るときに皆山さんにお声がけさせて頂きます」

「おう、じゃあそれで。また後でな」

「はい、また後で」


 軽く礼をして皆山さんがデスクに戻っていったのを確認してから自分のデスクに向かう。この会社では指導役と新人は対面になるよう配置されている為、俺は先輩の目の前ということになる。


 正直な話、これが一番嬉しいシステムだったかも。分からないことはすぐ聞けるし、先輩の動向もチェックできるから見失うことがあまりないし、なにより綺麗な先輩の顔がいつでも拝めるし。ありがとう社長。


 リュックをデスクの横にかけていつものようにパソコンを起動させる。


 さて、週の初めから早速ピンチな予感だけど、頑張っていこう……。

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