十一日目 お疲れな身体に効く最高の一杯

 結局、先輩にはなにも話せずにただただ黙々と仕事をこなして今日は一時間の残業で済ませた。申し訳ないことに俺が帰るまで先輩も残って手伝ってくださって本当に感謝しかない。


 二人で一緒に会社の入ってあるビルを出たところでいつもであればそのまま駅に向かうのに、今日はタクシーで帰るからと別れた。用事があったのか、疲れて休みたかったのか、もしくは俺といるのが嫌だったとか……ううん、ネガティブになっていちゃダメだ。


 先輩はそんなことを隠しておく人じゃないはずだし、ましてや相手の目の前でわざと行動に起こすような人でもないし、疲れていただけ。はい、この話は終わり!


 雲がかかって暗い心を起こして前を向く。眩しい駅の電飾にすこしだけ光を分け与えてもらいながら、今日も帰路についた。



 ◇◇◇◇◇◇



 アパートに着き、階段を上って左手奥の自分の部屋まで向かう。今日はお隣さんの部屋の明かりが見えない。


 どこかに出かけているのかな。それともまた別の女の子に手を出して絶賛お楽しみ中なのかも。


 さすがに一度話して反省した様子だったからすぐに再犯することはないと思いたいけど、ああいうのは癖になっていたらなかなか抜け出せないって言うからな。


 お隣さんの好青年な態度からは考えにくいにしても結局女癖が悪いことは事実だったわけで、今はもうないとも言い切れないのがちょっと。一度の犯罪や悪行で信頼を失うのってこういう感覚なんだと実感する。


「ただいまー」


 まあ、そんな無粋な憶測は一旦捨て、鍵を開けて帰宅。なかには当然誰もいない。


 今日は野球の試合がないからパッと風呂にでも入ってゆったりダイニングで酒でも飲もうかな。特に興味のない番組でもBGMとしてかけながら。


 それから服を着替えるなり、明日に必要なものがないか確認をしたり、なにも心配するようなことがないよう準備を済ませ、シャワーを浴びて頭と身体を洗い、ドライヤーで乾かす。もう少し外が暑くなってきたらべとべとした汗を流して気持ちをスッキリさせるために湯船に浸かるけど、今はこれぐらいがちょうど良い。風呂から出た後の部屋の空気感が絶妙に涼しくて気持ちいいんだ。


 そしてダイニングに戻ってきたら冷蔵庫まで直行。なかで冷やしておいたグラスを取り出して三百五十の缶ビールを注いでいく。そうだ、この前テレビで見た三度注ぎをしてみよう。まずは盛大にグラス一杯をギリギリまで注ぐ。そして静観。

 くぅー、この泡が次第になくなっていくのを待っている時間がなんとも贅沢だな。いつもならすぐにでも喉を潤したくて、こっちもある意味では贅沢に一缶をすぐ空にしちゃうんだけど、この待つ余裕がまた……最高です。

 それで立った泡が程よいぐらいになくなってきたらゆっくり注ぎ足していく。なるほどなぁ、この間に膨らむ期待がさらに味を深くさせるわけだ。ああ、もう堪んなくてつい喉を鳴らしてしまう。

 そして最後はまたさらにゆっくり注いでグラスに雪が積もったように泡を盛り上げれば完璧。やっば、これ飲んだら甘美のあまり倒れちゃうんじゃないの。


 はぁぁぁぁ……いただきます!


 泡のなかに唇を突っ込んで、なかから溢れ出てくるビールを開ききった喉のなかに勢いよく流しこんでいく、この感じ。最高ののど越しと泡のうまさがもう堪らんっ!


「ぷはっ、うめぇぇえええ!」


 藤○竜也ばりの声量と表情でただこの幸せに酔いしれる。今日はお隣さんがいなくて良かったと思えるほど、声を出し切った後にやってくる達成感。

 残っている分も一気に飲み干して、早くも一杯を堪能しちまった。


「もうダメだ。こんなの味わったらやめられないって」


 さすがに一本全て使い切ってしまうから何度も出来ないけど、毎度贅沢なビールから始まるのは最高だろうな。これからも初めの一杯目だけはこれにしよう。


「ふぅ…………」


 一息ついて余韻に浸る。もうテレビつけるとかつまみを出すとかどうでもいいや。今日はただ飲んでいようじゃないか。


 そうしてもう一缶冷蔵庫から取り出し、ダイニングに置いている座椅子に背中を預ける。身体の脱力感が凄まじい。このままここにいたら蕩けちゃいそうなぐらいに。

 最悪寝落ちしてしまってもいいように、先輩や係長から連絡が入っていないか確認しておこう。


「おっ、これまた珍しい相手から来てるな」


 トーク一覧の最上部には高校時代の今でも時折連絡を取り合っている友人がいる。

 俺が仕事のためにこっちに来てからは全くと言っていいほど会わなかったし、あっちもあっちで忙しいみたいで電話すらしていなかったし、ちょっと嬉しいかも。


『なあ、良かったら今からリモートで飲み会しないか?』


 おー、いいね。送られてきたのが五分前だからまだ間に合いそうだし、せっかくならやろうじゃないか。今はもう色々と落ち着いてリモートという文化だけが残っているけど、やっぱり使いやすくていいんだよな。


 一緒の場にいる特有の空気感を味わう必要がないし、自宅にいるという安心感もあるし。


『全然OK。準備できたら部屋に招待送るよ』

『ありがと。じゃあ、待ってる』


 それにしても急なこの提案は絶対なにかあったからだ。


 もちろん俺も先輩のことで悩んでいるから話は聞いてほしい側だけど、相手のことを蔑ろにしてまでとは思わない。もし、あいつの話が終わって時間が余っていたら切り出す程度で考えておこう。


 自分の部屋からノートPCを持ち出してテーブルの上に置く。背景が映って困るような相手じゃないから何も設定しなくていいや。


『招待送ったぞー』


 そうメッセージを送ってすぐに入ってくる。


「すまんな、突然こんなこと頼んで」


 入りから謝罪か。これは相当参っている可能性があるなぁ。こいつ、昔から正義感強くて間違いが起こったら自分を責めてしまうタイプだから今回もそれが原因の可能性がある。

 今のところ映しだされている表情が暗いということはないけれど。


「何言ってんだよ。俺達の仲だろ? いちいちそんなこと気にすんなって」

「それもそうか。ありがとな、なんだか変に緊張してたわ」


 笑顔が硬いよ、内島ないとう。そんなんじゃせっかくのビールが不味くなっちまう。


「それで、今日はどんな要件だ?」

「いやー、それがさ…………」


 分かりやすく視線を下に向けた。切り出しにくいのか口を結んでいる。相当大きいことやらかしたのかな。俺みたいに不器用で適応力のない人間じゃなくて、むしろ学生の頃はクラスの委員長としてみんなをまとめていたぐらいリーダーシップのある男で先生からの信頼も厚かったんだけど、なにがあったのかここは俺から聞きだしてみるか。


 とにかくこのまま重い空気が蔓延するのを嫌って口を開く。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る