第107話 とっておきの

 あの日確かに春山から好意を伝えられたはず。夢の中というか、現実と遜色ない空気の別世界ではあるけれど。心臓まで冷たくなるような怪しい暗闇の中、山奥の洋館の一室で確かに言われた。


 異常な状況も含めてしっかり記憶している。あの時の春山から握られた手の震えやそっと吐き出すような声の加減。一生忘れられないであろう大切な思い出だ。


 あの時と同じくらいの緊張感で凛太はスマホを握り、春山へのメッセージを綴っていた。


 春山はきっと勇気を振り絞って自分に思いを伝えてくれたのだろうけど、凛太はしっかりと答えてあげられてはいなかった。今は仕事中だからという態度でその場を乗り切ってしまった。


 そういうこともあって、どんな風に誘っていいかはかなり熟考することになった。いくつか誘うパターンを考える。関係ない話題から入るか、いきなり結論から入るか。それに対する返信まであらかじめ予想しつつ。


 昼頃から考えた凛太が、春山にメッセージを送信できたのは夕方のことだった。それくらいに悩みぬいた。桜田に思いを伝えた時の自信というか慢心はいつの間にか無くなっていた。


 誘う日時は早いけど明日。バイトのシフト表を確認したところ凛太と春山の2人がちょうど休みになっている日だった。


 別にその日じゃなくてもいくらか2人とも休みの日はあったので春山の希望も聞くつもりだったがあっさりと1発でOKの返事がもらえてしまった。


 その返信があった時も凛太は緊張で文字を見ながらしばらく固まった。


 誘うときはデートとも言わずにこの前どうだったとかも言わなかった。街のほうへ行こうと、それだけの言葉にした。きっとそれだけで自分も好きだという気持ちを孕んでいることが伝わると思って。


 決まってからも着る服やデートプランを考えた。実家を離れてここに住むようになってからずっとあそこにデートで行くといい雰囲気になれるだろうなというスポットが凛太にはあった。


 彼女がいない日々の間、ずっと温めていたとっておきの場所だ。春山という女性にはそれを使う価値がある。


 デートの心配と悪夢の心配で二重の不安を抱えた夜も、馬場からもらった薬が落ちつた眠りをくれた。もう1週間使っている薬が凛太の体内に入るのは習慣になりつつあった。


 目覚めた午前10時、遅いけど最近の凛太にとっては早起きの時間。準備をして、待ち合わせの駅前に向かった凛太は春山を見つけた。


 10分早く来た凛太よりも早く待ち合わせの場所に来ていて、木陰のベンチに足を閉じて座っている春山を見ると、凛太は話しかける前に心の中でこう叫んだ――。


 かわいいっ。

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