第56話 ぎくしゃく

 宮部との初めてのバイトが終わって、その後は1日の休みが与えられた。凛太はその1日を食って寝て風呂に入って……またゲームをして何でもなく過ごした。


 一人暮らしで現在付き合っている彼女もいない凛太は好きな時間を過ごして、好きなものを食べた。スーパーやコンビニに売っている範囲内のものであるが、食べたいものがあれば買った。


 一時期は一人暮らしを始めた男のあるあるで料理にハマりかけたが、すぐに全くやらなくなった。基本的には冷凍食品や弁当に頼りっきりで料理をするとすれば焼くとだけか煮るだけ、あとはたまにご飯を炊くくらい。


 結局は誰かが作ったものが一番うまい。


 そうやって過ごした当たり前の一日はまた時間となり、凛太の罪の気持ちを軽くした。宮部から学んだ楽しいほうに行くという考え方も今一度自分にとっては何をするのが楽しいかなんてことも思い描いてみた。


 来月にはバイトの給料も入ってくる。たぶん自分が今まで1月に稼いだ額の中で一番多いはず。そうしたら夏にはどこにも行かないつもりだったがふらっと行ったことのない場所に行ってみるのも悪くない。


 そして迎える次の日のシフトは春山と一緒だった。凛太がずっと片思いしている大学の同級生の春山とまさかの場所で会って、2人できつい経験をした。


 あのアイドル級のルックスを持っている天使と一緒のバイトだということに最初は喜んだけれど、思いもよらぬ悪夢に会ってしまい自分たちのミスで人を1人殺してしまった。それから一週間経った今、春山の心境はいかがなものだろうか。


 間接的というか疑似的というか形に残る殺人ではないが凛太も随分苦しんで今もぞっとすることがある。バイトに行く前にどんな顔をして挨拶しようか悩んだ……。


 悩んだまま病院のバイト準備室まで辿り着き、再会した春山にはいつもの笑顔は無かった。話すときはいつも口角が上がっているイメージだが暗い声の挨拶で2人のシフトは始まった。


 やつれていたり、目の下にくまができていたとかいうことはなく春山は普通だった。先週会った時と変わらないくらいの肌色だった。そこは良かったけど、いざ会うとやっぱりお互いにあの件を思い出してしまったみたいだった。


 そんな春山との仕事はぎくしゃくした。話したいけど前の悪夢がちらつくし、その悪夢について話すのが正解かお互いに黙っとくのが正解かも分からなかった。そんな状態じゃ会話にならなかった。


 幸いなことに治療する悪夢はとても簡単な部類だった。「最近、仕事でミスをする夢を頻繁に見ます。大遅刻をしたり会議の資料のデータを誤って消してしまったり。気にしていなかったのですがあまりに夢の回数が多くて、現実に近い感覚もあるため日常生活でも神経質になってしまっています」。会社員の男性の他人から見ると怖くはない悪夢だった。


 凛太と春山は夢の中で、上司のデスクにコーヒーをぶちまけてしまった患者の男性を慰めて夢だと伝えた。スーツを着た男が盛大に転んで上司らしい男の禿げた頭から作業中のパソコンにまでコーヒーでびちゃびちゃにしたのは夢だと分かっていれば笑える光景だった。


 しかし、春山と2人では笑おうに笑えず真面目な姿勢で治療にあたった。上司に叱られる患者を逃がして、どこかの会社の廊下で男に夢だと伝えた。その後は男の会社で愚痴を色々と聞いてあげた。元々神経質で完璧主義のような男だった。


 次第に男は眠りについて、その後は春山と無言で過ごしその日の悪夢治療は終わった。


 凛太の見立てでは春山ももうそれほど思い悩んでないように思えたが、あんなことがあった後にたった一週間で2人して笑い合っていいものかと自粛している感じだった。例えるなら、あまり仲良くしていなかった親戚の葬式の後みたいな空気感が2人の間にはあった。


 そんな空気を変えてくれるかもしれないイベントがもうすぐにある。明日はとまと睡眠治療クリニックの従業員たちが参加する飲み会だ。

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