第92話 先送り

 凛太もまだ起きてから早足の鼓動が抑えられていなかった。体の血が燃やされているように脈打っている。


 クーラーも消えてしまっているらしい廊下では、外からの真夏の熱気が充満していた。吸い込んでも生ぬるくて喉に馴染まない。それも相まって体を包む熱が、行き場を求めて凛太の身を苦しめた。


 どこかの悪夢でも見たような赤い光を放つドアの前に立つ。そのドアに触れようとすると、手が届くよりも先にドアが開いた。


「……ああ、草部君」


「院長……」


 出てきたのは馬場だった。赤い光を背中に受けて顔はよく見えない。


「患者さんの治療終わりましたよ。けどちょっと気になることが」


「ごめんね。他の作業に夢中になっててね。あとなんか暑くない?クーラー切れてるの?」


「はい。電気が切れてるみたいですよ」


「ちょっと治療室で待ってて。僕はそれ直してくるから」


「……はい」


 馬場が出てきたドアは馬場の手により固く閉ざされた。凛太は歩いていく馬場を見つめたまま薄暗闇でしばらく立ったままだった。


 声色では普通らしい馬場が出てきたのは思っていたよりも安心する展開だった。だけど、気が抜けたのではなくて体を動かせなかった。凛太は馬場が歩いて行ったほうから別の何かが来ても対応できるように注意していた。


 数分で廊下に明かりが灯って、足元から冷気が漂ってくる。空気を多く飲み込むと急いで治療室へ歩き出した。馬場が戻るよりも早く行くために。


「あはははは……ははは……」


 震えていた桜田は、震えたまま今度は笑っていた。明るくなった部屋で凛太が入ってきても気にせず。


「草部君。この世界にはもっともっと怖いことがいっぱいあるのかもね……楽しみになってきた」


 心は折れていないらしかった。疲弊した女性にかける言葉も考えていたけれど必要なかった。


「草部君も夢の最後に何があったか覚えていないの……?」


「はい。何も」


「ふーん……知りたいなあ……見たいなあ……」


 凛太も震えていたかった。けれど、膝から沸々とする震えを踏ん張って耐える。


 馬場もすぐに部屋へやってきて、本日の治療の終了を告げた。


「院長。ちゃんと患者さんの悪夢治ってました?」


「うん。どうかした?」


「あ、いや治ってるならいいです」


 凛太は帰った。誰よりも早く。何で自分の悪夢の少女が出て来たのかとか、あの赤い部屋は何だったのかとか、馬場は何してたのとか……気になることは全部一旦胸の奥に追いやった。


 追いやったまま、自室のベッドの中に潜り込む。信じたくないというか、何かの事故であることを願った。だって、あれが全部何か意味を持っているなら……絶対にまずい。


 今日たまたま装置の調子が悪かったとか、自分の体調が悪かったとか、それとももっと他の何かや誰かが悪い方向に絡んできていた。


 寝て起きたらそれらは全てリセットされる。気にしないでよくなる。それを願った。


 だから一旦忘れる。とりあえず確かなのは、桜田が自分の告白の部分も忘れていてくれたら良いということ。


 クーラーに加えて扇風機も回し、布団にくるまる。布団で寒さをガードしながら寝るのはなんて気持ち良いのだろう。そして落ち着く。怖い夢もきっと見やしない……。



 ――翌日から、とまと睡眠治療クリニックには大量の患者がなだれ込んできた。

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