第8話 気づかないフリ
「そういえばさ、美愛ちゃんも、蒼斗もそろそろ敬語やめない? あと『さん』付けも」
いつものように一夜さんの家で集まっているとき、一夜さんが切り出した。
一夜さんに敬語を使っていたのは私だけではなかった。
一夜さんにとってバイト時代の後輩にあたる蒼斗は一夜さんには敬語を使っていたのだ。
「もうバイトも辞めて結構経つし、そろそろいいだろ?」
今度は蒼斗くんにこう言った。
「そうっすね~。あ、そうだな! ってまだ違和感あるんだけど」
蒼斗くんが照れながら言った。
「徐々にでいいよ! ちょっと気になっただけだから」
一夜さんは笑った。
私はどこかでその言葉を待っていたのかもしれない。一夜さんとの距離が少し縮まった気がして微笑んだ。
「私もイチくんって呼ぶね」
何て呼んでいいのかわからず、結局奈那と同じこの呼び方で呼ぶことにした。
「うん。それでよろしく!」
イチくんはそう言うとスッキリしたように手元の缶酎ハイを飲み干した。
こうして今日も夜が更けていく。
楽しい時間はあっという間だ。
***
朝になって、イチくんたちの地元の駅で奈那と蒼斗くんと別れた。
私は改札に入ると駅のホームのベンチに腰かけ、始発電車を待っていた。
どうしてだろう。
ふとしたときに公園で奈那が振り上げたラケットがぶつかったときのことを思い出してしまう。
私のツッコミに笑う奈那と蒼斗くん。
それが普通なのに。
それなのに……。
そんな私の笑いに全く反応せず真剣な顔で私のことを覗き込むイチくん……。
「気がない人には優しくしちゃいけないんですよ……」
私は誰もいないホームで呟いた。
わかってる。イチくんは意識なんてしていない。
意識なんてしなくたって、びっくりするほど人に優しくできてしまう。
心がキレイな人なんだ。
そして胸の奥が痛むような感覚。
まさか……まさかね!
私はハッとして首を横にブンブンと振った。
まだ誰もいない駅のホームで良かった。
この光景はまるで不審者だ。
そんなわけないよ。うん。そんなわけない。
私は彼氏と別れたばかりだし、イチくんは奈那のことが好き。
私とイチくんが出逢った時にはもう既にイチくんは奈那のことが好きだった。
その状態で私たちは出逢ったんだ。
初めて会った日、河原で車から降りる奈那ににイチくんが差し出した手を思い出した。
また胸の奥がズキッと痛む……。
(どうして……?)
私は男の人に優しくされることに慣れていないだけだ。
忙しい日々で忘れていたつもりだったけれど、本当は元彼と別れて寂しいんだ。
心の拠り所がなくなって……。
だから、だから……。
頭の中で必死に言い訳をかき集めた。
この胸の痛みだって、きっと気のせいだ。
気のせいだよね……。
ねぇ……。
「まもなく1番線に上り列車がまいります」
そう、きっと気のせい……。
私は自分の気持ちに気づかないフリをして、そう言い聞かせて立ち上がると、始発電車に乗った。
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