第57話 優しさに包まれて

その夜、私は蒼斗くんの優しい腕の中で眠った。

だけど、それ以上のことは何もなかった。

いつも仕事で気を張っていることが嘘のように、私の心は和らいでいた。

穏やかな朝日が差し込む。

そして、隣で眠る蒼斗くんの無防備な寝顔を少し眺めた後、起き上がると支度をした。


「美愛ちゃん、起きてたんだね」


それから少しして、蒼斗くんが起きてきた。


「おはよう」


私は寝起きの蒼斗くんに微笑んだ。


「おはよう。ごめんね、今俺も支度するね。駅まで送っていくよ」


そう言うと蒼斗くんは部屋を出た。

さっきまで蒼斗くんの隣で眠っていたことが何だか不思議な感覚だった。


「おまたせ」


しばらくすると、身なりを整えた蒼斗くんが戻ってきた。


「急かしちゃったみたいでごめんね」


「ううん。ちょうどサークルメンバーとの予定があったから」


蒼斗くんは忙しい人だ。

蒼斗くんの人懐っこい性格がこうしてたくさんの人を寄せ付けるのだろうか。

そんな合間に私のことまで気に掛けてくれる。


「お邪魔しました」


そして私たちは駅まで歩きだした。

蒼斗くんが家に呼んでくれたこと、支えになりたいと言ってくれたこと、そして抱き寄せてくれたこと……。

それがどういうつもりなのか気にならないわけではないけれど、それを確認する勇気なんてなかった。


「それじゃあまたね」


蒼斗くんは駅の改札まで送ってくれた。

急に心細くなる。

このまま別れたら昨夜のことが何もなかったことになってしまいそうで……。


「蒼斗くん」


蒼斗くんは急に名前を呼ばれて、驚いたように私を見た。


「あの……。これから毎日連絡してもらってもいいかな」


自分が何が言いたいのか整理もできていないのに、口から出たのはこんな言葉だった。

こんなこと言ったら引かれるよね……。重いよね。付き合ってもいないのに、私はやっぱりどんどん弱くなる。


「うん! 俺にできることなら何でもするよ」


蒼斗くんは笑顔でそう言ってくれた。

その言葉と笑顔に安心する。


「ありがとう」


私が蒼斗くんを見上げると、蒼斗くんは笑顔のまま私の頭をポンポンと優しく撫でた。


「気を付けてね」


「うん、ありがとう。またね」


そして私は改札に入ってからまた振り返った。

蒼斗くんは笑顔で手を振ってくれていた。

私はまた蒼斗くんに手を振ると駅のホームへと向かった。


蒼斗くんの優しさは私の想像を越えていた。

失恋したばかりで、仕事では息苦しい毎日で、そんな辛い時に傍にいてくれる蒼斗くんにこのまますがってしまいたくなる。

弱い自分を一度さらけ出したら止まらなくなりそうで、蒼斗くんに嫌われてしまうのが怖い。


さっきまで感じていた蒼斗くんの優しい腕の温もりと、頭を撫でてくれた感触を思い出しながら、私の心は揺れていた。


***


1件のメールに気づいたのは家に帰ったからだった。


「美愛ー! 蒼斗くんに聞いたよ。昨日会ったんでしょ? どうだった?」


あぁ、そうだった。

その文面を見て、蒼斗くんが私と会うことを奈那に話したと言っていたことを思い出した。


「楽しかったよ。もちろん何もなかった」


何もなかった訳ではないのかもしれないけれど、奈那には誤解されないようにしておかないと、と思った。


「そっかー。美愛、色気ないもんねー(笑)」


蒼斗くんが私に手を出して来なかったことは、色気の問題ではなく、蒼斗くんの優しさなのだと思っていたが、そう言われると少しだけ不安になる。

だけど、きっと蒼斗くんはそんな簡単に手を出してくるような人じゃない。


イチくんと奈那の間には私が入り込める隙なんてなかった。


だけど今は……。


私と蒼斗くんの間に奈那が入り込める隙なんてないんだと信じていたい……。


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