第58話 願い

そしてまた日常が始まれば、週末の出来事はまるで長い夢を見ていたような遠い記憶になっていく。


週の半ば。いつものように出勤すると、疲れきった彩香さんの姿があった。

黒石部長が就任してから他社からのクレームが多く、通常業務外でその対応に追われている。

その様子を相良さんが心配そうに伺っている。


「黒石部長のこと、上層部に相談してみたんだけど、取り入ってもらえなかった」


彩香さんはため息をついた。


「やっぱりそうでしたか」


相良さんも落胆した表情を見せる。


「それどころか、黒石部長が若い上に女性で異例の出世だから私達がそれを僻んで陥れようとしているんじゃないかとまで言われたの」


「そんな……」


彩香さんの苦労を目の前で見てきた。

誰よりもこの部署のために頑張ってくれている。

彩香さんあっての営業部なのに……。


「出来る限りのことはしてきたつもりだけど、聞き入れてもらえないんじゃどうしようもないよね。私ももうフォローしきれない」


彩香さんのこんな弱音を聞くのは初めてだった。

ここは黒石部長に支配されている。

みんながもう限界なのだ。

そんな中で、また今日という1日を過ごす。

大変なのはみんな同じ。

私何かより彩香さんや相良さんの方がずっと辛い筈……。

だからここでは私は弱音なんて吐いてはいけない。


***


「お疲れさま。今日はどうだった?」


あの日の約束通り蒼斗くんは毎日連絡してくれた。

そんな蒼斗くんに支えられ、私は何とか立っていられる。


「お疲れさま。今日はわりと平和だったよ。蒼斗くんも忙しいのに、本当にありがとう」


メールの返信をしながら、蒼斗くんの腕の中で眠った夜を思い出す。


「それなら良かったよ。俺は美愛ちゃんの力になれればそれだけで十分だから。また土曜日にでも飲みに行こう」


「ありがとう。土曜日楽しみにしてるね」


相変わらず蒼斗くんは優しかった。

そんな優しさに甘え過ぎてはいけないとわかっていながらも蒼斗くんの存在が日に日に大きくなっていく。

この気持ちが恋愛感情なのかと聞かれればわからないけれど、私の心の傷に蒼斗くんの存在や言葉が薬のように染みていくのは確かだった。


週末があるから頑張れる。

蒼斗くんがいてくれるから頑張れる……。


いつだったか、イチくんの自転車の後ろで感じた背中の温もり。あの瞬間もきっとイチくんの心には奈那がいた。

だけど、蒼斗くんが私の肩を抱き寄せてくれたとき、あの瞬間は蒼斗くんの中には私だけがいたのだろうか……。


人の心なんて簡単に見えるものではない。


そのとき、メールを知らせる着信音が鳴った。


「これから前のバイトの友達と、美愛の愛しの蒼斗くんと3人で飲んでくるねー」


奈那からのメールに胸がざわつく。

見覚えのある文面。このメールを見る度に私の心は傷つけられてきた。

嫌な予感がして、スマホを持つ手が震える……。


「楽しんできてね。行ってらっしゃい」


悟られないように明るく返した。

本当は怖くて怖くてたまらない……。


イチくんは最初から奈那のことが好きだった。

私に入り込む隙がないのは初めからわかっていたこと……。


だけど……。


『ぶっちゃけ俺さ、奈那ちゃんがバイト辞める頃にほぼ入れ替わりで入ったから、ほとんど奈那ちゃんと接点なくて』


あの夏の日に蒼斗くんが言った言葉を思い出す……。奈那と蒼斗くんはそんなに仲良くない筈だ。


私と蒼斗くんは何度となく2人で過ごした。

だから大丈夫だよね?

私と蒼斗くんの関係は簡単に壊れたりしないよね?


お願いだから、これ以上私の支えを奪わないで……。


私は勝手な女かもしれない。

身勝手で、我が儘なのかもしれない。


だけど……私は願わずにはいられなかった。


優しい蒼斗くんの腕の温もり。

帰り際、頭をポンポンしてくれたときの笑顔。


私は蒼斗くんを信じてる。

蒼斗くんと私の間にある筈の絆を……


信じてる……。





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