第63話 思わぬ事態

胃炎の診断を受けてから数日後、取引先の案件に彩香さんのアシスタントとして来ていた。

彩香さんの足を引っ張らないように、私の神経は張り詰めていた。

だけど、彩香さんは私に『要領が悪い』と言い放った日のことは覚えてもいないようだった。

そういうサバサバとしたところも彩香さんの好きなところの1つだ。


取引先からの直帰のスケジュールとなっていたので、足取りも軽い。

社外で見る彩香さんは営業部が新体制になる前と変わらない笑顔だった。


「そういえば美愛、例の人とはどうなったの?」


営業部に入る前、イチくんのことを少しだけ話したことがあった。好きな人が出来たと。

だけど、もうそれも遠い遠い日の出来事に感じる。


「失恋しましたね。間接的に」


今となってはイチくんとのことも、すっかり過去のことになりつつある。


「え? どういうこと?」


驚く彩香さんに、私は全てを話した。

イチくんと奈那とのこと、蒼斗くんのこと……。


「それでとうとう私、病みすぎて、病院行ったらストレス性の胃炎だったんですよ。あはは」


もう全てのことを笑い飛ばしたくなった。

そうするしかなかった。


「え? 胃炎って大丈夫なの?」


彩香さんは更に驚く。

そしてしばらく黙っていたが、突然思い付いたように声をあげた。


「それだ!」


状況がわからない私をよそに、彩香さんのテンションは高くなる。


「それならきっとうまくいく! 美愛、ありがとう!」


なぜお礼を言われているのか、彩香さんが何を考えているのか、全くわからない。

そして状況がわからないまま、颯爽と歩く彩香さんの後ろを必死で付いていった。


***


翌日出勤すると、相良さんが私のところへすっ飛んできた。


「一瀬! 彩香さんに聞いたけど、大丈夫なの?」


大丈夫とは胃炎のことだろうか。

今までの相良さんからは信じられないくらい私への態度が優しくなって、不気味なくらいだ。


「薬は飲まなくていいの? 辛くなったらいつでも言いなさいよ」


「ただの胃炎なので大丈夫ですよ」


大袈裟だなと思いながら私は席についた。

そこに彩香さんが走ってきた。


「祐子ちゃん、美愛、喜んで! 大ニュースよ!」


興奮気味な彩香さんを見るなり相良さんは全てを察したようだったが、私には何もわからなかった。


「今日の昼休み、上層部と面談です! そこで全てを話しましょう」


彩香さんの目はキラキラしていた。


「一瀬、胃炎になってくれて本当にありがとう!」


相良さんも目を輝かせて私の手を取った。


「あの……どういうことですか?」


私はまだきょとんとしていた。


「あんた、ほんと疎いのね。私たちが何を言っても動かなかった上層部が、一瀬が胃炎になったことでようやく動き出してくれたのよ」


そういうことか、でも、なぜ?


「新人の一瀬が胃炎になるなんてよっぽどのことがあったに違いないと上層部も気づいてくれたのね」


私が胃炎になった原因は仕事だけではないが、まぁ結果オーライと言ったところだろうか。


足を引っ張ってばかりの私に彩香さんや相良さんを救うことができるなら、胃炎になったことも無駄ではないと思うのだった。


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