第62話 青空

何のために働くのか。

誰のために生きるのか。

そんな疑問にも答えられないままで、繰り返される日常から逃れることもできない。


胃痛で目覚める朝も、吐き気から逃げるように眠る夜にも少しずつ慣れてきた。

『まだきっと頑張れる』

何のために頑張るのかもわからないけれど、呪文のように唱えると、とりあえず倒れるまで仕事はやり続けようと踏ん張った。


いつだったか、朝焼けを見ながら蒼斗くんが聴かせてくれた子守唄ララバイという曲を聴きながら今日も眠りにつく。

明日もきっと、胃の痛みで目覚めるだろう。


***


胃がズキズキと痛む。

朝が来た。

私は支度をして、家を出た。


久しぶりに外に出る休日。

私の心とは裏腹に快晴だった。

蒼斗くんと連絡が取れなくなってからほとんど休日に外出することはなくなっていた。


歩き慣れた駅までの道のりの途中で脇道に入るとそこには小さな内科があった。


「一瀬さん、お入りください」


優しい雰囲気を纏った看護師さんに促され、私は診察室に入った。

子どもの頃から通っているこの病院の院長もだいぶ年を取った。


「今日はどうしたの?」


すっかりおじいちゃんという見た目になった院長が昔から変わらない口調で尋ねた。


「最近、胃腸の調子が悪くて……」


原因はほぼわかっていたけれど、一応診てもらおうと思ったのだ。

院長は問診を続けた後、こう言った。


「うん。ストレス性の胃炎だろうね。最近ちょっと頑張り過ぎてたんじゃないかい?」


昔から変わらない口調と、予想と同じ診断に少し安心した。

彩香さんや相良さんに比べたら私なんて頑張ってるうちには入らない。だけど、私なりにやってきた結果だったのだ。


「薬出しとくからね。お大事に」


「ありがとうございます」


私はお礼を言うと診察室を出た。


***


会計を済ませ、薬局に立ち寄り、薬をもらうと外へ出た。


この胃の痛みがストレスだとわかったら何だか急にすっきりとして、少し気が楽になった。

雲一つない青空の下、歩き出す。

こんな風に気分まで晴れやかな気持ちになるのは久しぶりのことだった。


今まで鬱ぎこんでいて、こんな風に景色を見て歩く余裕なんてなかった。

仕事のことは何も解決したわけではないけれど、清々しくて、今は少しだけ現実を忘れていられるような気持ちになった。


そのとき、ふと鞄が震えるのを感じてスマホを取り出した。


「1件の新着メールがあります」


こんなときに誰だろう?

そんな疑問を感じながらメールを開く。


「美愛ー! 蒼斗くんから全部聞いたよー。いろいろ大変だったね♪」


そのメールに、私の晴れやかな気持ちは一気に崩された。

せっかく全てを忘れかけていたのに……。

どうしてこのタイミングで……?

『♪』マークが私の不幸を楽しんでいるようにしか見えない。


あなたのせいで私は胃炎になりました。

あなたのせいで私は全てを失いました。

今頃どこかでそんな私の不幸を喜んでいる。

高笑いでもしながら……。

それであなたは満足ですか?

私をここまで陥れて、あなたは幸せですか?


いつだって、今だって、あなたの一言で私は簡単に壊れそうになる。

せっかくここまで来れたのに……。

また一人で立つことさえ難しくなる。


さっきまで清々しささえ覚えていたこの青空までもが、私を嘲笑っているように見えた。


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