第34話 一足早いバレンタイン

打ち合わせが終わると、私は大急ぎで家に帰り、バレンタインの準備を始めた。

普通は前日に作っておくものかもしれないが、万が一イチくんがお腹を壊してはいけないので、当日に作ろうと思ったのだ。


何を作ろうかと悩んだ末に、重い女だと思われないようにキャラクターのクッキー型を買っておいたけれど、ちゃっかりハートの型も買っていた。


オーブンから甘い匂いが漂ってくる……。

予め書いておいたメッセージカードを見つめながら梨乃と選んだラッピングを用意した。


クッキーが焼けたのを確認して、キレイに焼けたものを選んで箱に丁寧に並べていく。真ん中に2つ、ハート型のクッキーを置いて箱を閉じた。


「お疲れ様。18時に美愛ちゃんの地元駅で大丈夫かな?」


イチくんからのメールにまた胸が高鳴る。

そしてまた夢じゃないかとほっぺをつねってみる。

こんなことで自分が世界で一番幸せだとさえ思えてしまうから恋というもののパワーはすごい。


「お疲れ様。18時で大丈夫だよ。ありがとう」


私はイチくんに返信をすると、予め準備しておいた花柄のワンピースに着替える。

髪を巻いてローズピンクの口紅を引く。

奈那のように可愛らしくはなれないからせめて少しでも大人っぽく見せたい。

そしてまた鏡をチェックすると、さっき用意したクッキーを鞄に入れて、駅へと向かった。


駅に着くとまだイチくんは来ていないようだった。

スマホを握りしめながら、その時を待つ……。

心臓が激しく波打つのを感じる。


(あ……)


向こうから見覚えのあるワンボックスカーが来るのが見えて、私はスマホを鞄に閉まった。

その車は私の目の前に停まるとイチくんが窓を開けるとこちらに向かって手を振った。


夢じゃない。

私はイチくんに手を振り返すと、少しだけ躊躇って助手席のドアを開けた。


ずっと憧れていたその助手席ばしょは私は座ってはいけないような気がして戸惑った。


「おつかれさま」


そんな私の戸惑いに気づいているのかいないのか、イチくんがまたいつもの笑顔を見せた。


「おつかれさま。来てくれてありがとう。お邪魔します」


イチくんの言葉と笑顔に少しホッとして、私は助手席に座った。

ここから見えるイチくんはとても近い。

聞こえてしまいそうな鼓動を落ち着かせるために深呼吸する。


「ここからだと国道が近いから、国道沿いのお店でもいいかな?」


イチくんはそう言うと車を走らせた。


「うん!」


返事をすることで精一杯だった。

あなたといられるならどこだっていい……。

幸せすぎてどうにかなってしまいそうだ。

あんなに望んでいた助手席。

だけど、ドキドキしすぎてイチくんのことを直視できない。

私は窓の外を眺めた。


「仕事、どうだった?」


イチくんの問いにハッとする。

そうだ。仕事の相談という名目で会いに来てもらっていたのだ。


「今日、営業部の顔合わせだったの。慣れない雰囲気で緊張したけど、女の部長さんも柔らかそうな人で少し安心した」


私は平然を装い、落ち着いたトーンで答えた。


「それなら良かった」


イチくんはまたいつもの笑顔を見せる。

またその笑顔にきゅんとなる。

ありきたりかもしれないけれど、時間が止まればいいと思った。


***


国道を走っていくと、カフェが見えた。

入ったことはないけれど、何度か外から見たことがあった。


「ここでいいかな?」


「ここ来てみたかったの」


私は目を輝かせる。


「俺も気になってたんだ」


そう言うとイチくんはカフェの駐車場に車を停めた。


アンティークな雰囲気の店内に入ると、私たちは奥の席に通された。


「何にしようかな……」


メニューに目を向ける。

悩んだ末にイチくんと同じオムライスを注文した。


「相談があるって言ってたっけ?」


イチくんの言葉にまたハッとする。


「うん……。イチくんにメールした時は営業部への漠然とした不安を聞いてほしかったというのもあるんだけど、今日行ってみて気になることがあったの」


私は彩香さんを思い出す。


「いつも颯爽としてて、憧れの女の先輩がいるんだけど、その先輩の様子がいつもと違って……先輩でも新体制に戸惑っているって噂も聞いてたんだけど、そんな先輩が動揺してるのを見て、長年やってる先輩でもそうなのに私がやっていけるのかなって……」


そう言って私は手元のコップに目を落とす。


「そっか……」


イチくんは真剣な表情をして、しばらく窓の外を眺めた。


「美愛ちゃんの新しい仕事がどういう内容かとか、俺にはわからないけど……美愛ちゃんは選ばれたんじゃないかな?」


「え……?」


私は顔をあげてイチくんを見た。


「美愛ちゃんのこの1年の努力が認められて、その、難しい部署に異動が決まったんじゃないかな。だから、きっとどういう環境にあったとしても今まで通りの美愛ちゃんでいれば、きっと見ていてくれる人はいると思う」


イチくんの言葉はいつだって、魔法みたいに私に響く。

その一言で私は前を向ける。今だってそう。


「やっぱりイチくんに話して良かった」


私は頷いた。

その言葉にイチくんが微笑むと私たちは運ばれてきたオムライスを食べた。


***


「ごめんね、少ししか居られなくて……」


お店を出ると申し訳なさそうにイチくんが言った。


「ううん。忙しいのに付き合ってくれてありがとう」


そしてイチくんは家まで送ってくれた。

幸せすぎて夢みたいな日……。


「あ、あのね……」


私は鞄から箱を取り出す。

今日の一番の目的は仕事の話なんかじゃなくて……。


「もうすぐバレンタインだから、少し早いけど、これ……お口に合うかわからないけど」


そしてイチくんに手渡した。

イチくんは一瞬驚いた表情を見せたが


「え? 作ってくれたの? 嬉しいよ。ありがとう」


そう言って受け取ってくれた。


「開けてもいいかな?」


予想外の言葉に胸が高鳴る……。


「うん!」


そう言うとイチくんは丁寧にラッピングを開けた。


「これ美愛ちゃんが作ったの? すごいね! 可愛い! ありがとう」


今まで見たことがない無邪気な様子のイチくんにまたときめく。

今まで知らなかった一面を見れたようで、知れば知るほどイチくんのことが好きになる。


「そう言ってもらえて良かった。」


「ありがとう。またお礼させてね」


嬉しいというイチくんの言葉がこの上なく嬉しくて飛び上がりそうになるのを抑えた。

お礼……とはホワイトデーのことだろうか。

少し義務のようだけど、無条件でイチくんに会えるならこんなに嬉しいことはない。


「ありがとう。今日も来てくれて、話聞いてくれて、本当にありがとうね」


そう言うと私は車を降りた。


「うん。またね」


そう言うとイチくんは笑顔で手を振った。

私はイチくんの車が見えなくなるまで見送った……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る