第35話 幸せの向こう側
家に帰ってからもさっきの無邪気なイチくんが頭から離れなくて、自然とにやけてしまう。
私から見えるイチくんはいつも大人で、冷静で……。そんなイチくんの無邪気な笑顔はまた私にとってかけがえのない宝物になる。
さっきまでの出来事が夢みたいで、何度も助手席から見たイチくんの横顔を思い出す。
どんなに近くにいても心ではずっと遠くに感じていたイチくんが私のために来てくれたこと、私のために時間を作ってくれたこと……
仕事の相談という名目だって、私の気持ちを知りながら、断ることだってできたのに、来てくれた。
自惚れかもしれないけど、今はこんな幸せに浸っていたい。
あのクッキーの箱を開けた瞬間の笑顔と無邪気な横顔が忘れられなくて、忘れたくない。
心の中に鍵をかけていつまでだって取っておこう。
営業部の打ち合わせに出席した午前中の出来事がもう今日の出来事ではないかと思えるくらい遠いことのようで……。
彩香さんの慌てた様子、黒石部長を見たときの焦燥感。思い出すと不安な気持ちがなくなるわけではないけれど、イチくんの言葉のひとつひとつが私を少しだけ前向きにしてくれる。
あなたがいてくれたら私は無敵にだってなれそうだ。
馬鹿みたいだと笑われるかもしれないけど、それくらい私にとっては大きくて大切な存在。
どれだけ救われたかわからない。そして今日もこうして救われている。
(お礼のメール送らないと)
文章を考えながらまたにやけてしまう。
「今日はありがとう。やっぱりイチくんに話して良かった。また3月から頑張るね」
クッキーのことにはあえて触れず、とりあえずお礼のメールを送信した。
その瞬間
「新着メールが1件あります」
もしかして……同時にメール送信した!?
また胸が高鳴る。
私は躊躇いもなくメールを開く。
「おつかれさまー。これから美愛の愛しのイチくんに会ってくるね」
……。
見覚えのある文面。奈那からだ。
その一瞬で私は幸せの絶頂から突き落とされる。
こんな簡単に壊れてしまう。
自惚れて、一人で舞い上がって馬鹿みたい。
「ごめんね、少ししか居られなくて……」
帰り際のイチくんの言葉が蘇る。
忙しいからだと思ってた。
仕事で疲れてるからだと思ってた。
そんな中で私のために時間を作ってくれたって自惚れてたの。馬鹿だよね。
奈那と会うからだったんだね。
こういう奈那からのメールは初めてじゃない。
もう何度目になるだろう。
その度に傷ついて、胸を痛めて、泣きそうになって……。
わかっていたはずなのに。
せめて、せめてイチくんと会うことを黙っていてくれたら……。
イチくんだって、奈那と会うことは私に言わないでいたのに。
私がさっきまで座っていた助手席にはもう奈那がいるんだね。
幸せにはいつだって副作用がある。
知っているのに……。
何度も幸せを噛み締めて、その後に必ず訪れるこの胸の痛みは日に日に耐え難い物になっていく。
幸せが大きければ大きいほど、その後の副作用に胸は張り裂けそうに痛む。
奈那はイチくんにバレンタイン渡すのかな。
そしたらイチくんは私に見せてくれたあの無邪気な笑顔で受けとるの?
100%本命の私からのバレンタイン。
100%義理の奈那からのバレンタイン。
どっちが嬉しいのかな……?
答えなんてわかっているのに……。
私が感じた一瞬の幸せの向こう側で今日もあの子が笑っている。
私の全てを見透かしたように……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます