最終話 ありがとう

金曜日の駅は人で溢れている。

待ち合わせスポットにはおめかしをした女子たちが鏡を見たり、スマホを眺めたりして各々時間を潰している。

そしてそれぞれに友達や彼氏らしき人を見つけては笑顔で繁華街へと消えていく。


「美愛ちゃん、お疲れさま」


聞き覚えのある声がして振り返ると、そこには今までと変わらない笑顔があった。


***


私たちは居酒屋に入るとそれぞれ飲み物を注文した。

こうしてまた2人で会える日が来ることが不思議だと思えるくらいに今までいろいろなことがあった。


お酒が運ばれてくると、私たちは乾杯した。


「美愛ちゃん、元気だった?」


お通しをつまみながら、以前と変わらない表情で彼はそう言った。


「いろいろあって胃炎になったけど、この通り! 今日久しぶりにお酒を解禁しました!」


私はジョッキを挙げて笑って見せる。


「大変だったんだね……」


そう言う彼は何事もなかったような顔をしていたけれど、その表情からはどこか疲れの色が伺えた。


「イチくんは元気だった?」


私の問いに彼……イチくんは少し躊躇った様子で


「元気だよ」


と力なく笑った。

大好きでしかたなかった人が今、目の前にいる。

もう誰にも邪魔されることなく、私たちの時間が流れている。


「きっとイチくんも大変だったよね……」


私の発言にイチくんは意味深な様子で頷いた。


「だけどさ、奈那もひどいと思う……」


「悪いのは全部俺だから……」


私が言い終える前にその言葉にかぶせるようにイチくんは言った。

そして、そのイチくんの言葉から私は全て悟った。

イチくんが奈那のことを大好きだったこと、それに奈那にキスをしたことが本当だったこと。


最後まで、奈那をかばうんだね。

本当に奈那のことが大切だったんだね。

痛い程にわかるよ。

私だって同じくらい、ずっとイチくんが大切だったから……。


私の表情が少し曇ったように思えたのか、イチくんは明るい声で話を切り替えた。


「そうだ! 美愛ちゃんにこれ、あげようと思って」


そして徐に鞄の中から小さい恐竜のフィギュアを取り出した。


「これって……」


イチくんに告白した夜、2人で観たDVDに出てきたキャラクターのフィギュアだった。


「美愛ちゃんと一緒にDVD観たから、これあげようと思って」


私の恋を加速させたあのときの無邪気な笑顔でイチくんは言った。

封印していたはずの感情が蘇る。きゅんと胸が狭くなる感覚。

こういうことをしてくれる人なんだね、イチくんは……。


「ありがとう! すごく可愛い」


私はそのフィギュアを眺めた。

これは義務ホワイトデーとは違う、イチくんからのプレゼント。

イチくんは私より年上なのに、私よりずっと純粋なのだろうと思った。


そして会っていなかった時間を埋めるように私は今までのことを話をした。


「美愛ちゃんはすごいな」


イチくんはそう言ってジョッキに口をつける。


「そんなことないよ。それに……イチくんが言ってくれた言葉を思い出してた」


どんな環境であっても私らしくしていれば見ていてくれる人がいるということ……。

イチくんの言葉は間違いなく私を動かしていた。

あの状況では自分らしくなんていられなかったけれど。


「仕事も、まだまだ私らしくなんて出来てないし、これから頑張らなくちゃね」


私はそう言ってまた笑って見せた。


「俺は……ずっと中途半端だったから……」


イチくんがぽつりと呟いた。


「実は進学のことがきっかけでずっと親とうまくいってないんだ」


だいぶ前に蒼斗くんが言っていたのはこのことだったのかな。

イチくんがこうして自分のことを話してくれるのは初めてだった。


「イチくんは中途半端なんかじゃないよ」


私はいつだって、イチくんを追いかけてた。

仕事をしたところを見ていたわけじゃないけど、いつだって真っ直ぐで、奈那に振り向いてもらえなくたって、私を利用しようとなんてしなかった。

その真っ直ぐさが時に辛かったけど……。


「私はイチくんを見てきたからわかるよ」


そんなイチくんだから、私は好きになったんだと思う。


「ありがとう。美愛ちゃん」


イチくんが少しだけ弱音を吐いたように感じて、そんなイチくんさえも愛しいと思った。

きっと今なら……。こうしてまた、2人きりで会う時間を増やしていけば、私はイチくんを振り向かせることができるかもしれないと思った。


だけど……。


またいつ奈那が出てくるかわからない。

奈那のいないところへ行きたい。

もう誰にも邪魔されたくない。


「私の方こそありがとう」


そしてまたしばらく何でもない話をしながら過ごしてから、私たちは居酒屋を出た。


「今日はありがとうね」


改札で立ち止まると、私は顔をあげた。


「こちらこそありがとう。気を付けてね」


最後まで優しいイチくんを見上げて、私 笑顔で手を振った。


「またね」


「うん。またね」


多分『またね』じゃない。

もうきっと会うことはないから……。


イチくんは私に笑顔で手を振り返すとホームに向かって歩き出した。


あの日、自転車の後ろで近くに感じられたあの背中がどんどん小さく、遠くなっていく。


「ありがとう」


イチくんのことを好きでいた間はきっと辛いことの方が多かった。これはイチくんを好きにならなければ知らなかった痛み。

だけど、その分ほんの些細なことでさえ、幸せだと感じることが出来た。


ありがとう。大好きだった人。

さようなら。すごくすごく大好きだった人。


イチくんの背中が見えなくなってから、私は歩き出した。


イチくんからもらったささやかな幸せを抱き締めながら……。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る