第30話 変わらない日常
あの遠回しな告白をした後も私たちは何も変わらなかった。
正確には変わらないフリをして過ごしている。
奈那も蒼斗くんも、そしてイチくんも……みんな私の気持ちを知っている。
だけど、表面ではそんなの知らないフリをして今日も私たちはいつも通り過ごしている。
「奈那持つよ」
飲み物を入れた袋を重たそうに持つ奈那と変わろうとして声をかけた。
「ありがとう」
そう言うと奈那は持っていた2つの袋のうち1つを私に渡した。
「段差、気を付けてよ」
後ろからイチくんが声をかける。
いつだったかつまずいた段差。
「はーい!」
ここにくる度この段差のことを思い出すから、もう転んだりしないよ、なんて思いながら、私は返事をした。
「お邪魔しますー」
そして私たちはイチくんの部屋に入るとリビングのテーブルの上に袋を置いた。
相変わらず他愛もない話をする。
いつものようにおつまみを温めてイチくんが運んできてくれる。
そんな風にまたこの時間が過ぎていく……。
「へぇー美愛ちゃん営業部に異動なんだー」
缶酎ハイを飲みながら仕事の話になっていた。
「俺も4月から営業だから、美愛ちゃんにいろいろ教えてもらお!」
蒼斗くんがポテトをつまみながら言う。
「営業部と言っても私は営業事務だから参考になるかどうか……それに私も初めてのことだし」
そう言いながら、とにかく新体制だということを上司が強調していたことを思い出した。営業部歴が長い彩香さんでさえも戸惑っているという噂を耳にして不安になっていた。
「どういう環境になったとしても、美愛ちゃんらしくやればいいんじゃないかな。今までみたいに」
慣れた手付きで空いた缶を片付けながらいつもの笑顔と優しい口調でイチくんが言う。
どんな環境に置かれてもその一言がまた私の力になる。
「ありがとう」
イチくんを見上げて言った言葉は自分で思っていたより力がなく情けなく響いた。
イチくんは私の気持ちを知っている。それでも何も変わらない。
変わらずに接してくれているこの人はやっぱり優しい。
突き放されたと思っていたのに、その予想外の優しさにまた鼓動は高鳴る。
いつも通りなのはみんながいるから……?
もしそうだとしても、せめて今だけは気づかないフリをしていてもいいかな。
「美愛、飲み過ぎじゃない? 顔赤いよー」
奈那に言われて、ハッと我に返る。
イチくんの優しさにすっかり酔いしれてしまっていた。
「あははー。そうかな? あ、私そろそろ帰ろうかな」
ふと時計を見ると終電の時間が迫っていた。
明日は仕事だったので、今日は終電で帰ると決めていた。
それに……同じ部屋にいるのにまるで私の存在がなかったあの夜みたいな切ない想いをするのなら、早く帰った方がいい。
「じゃあ駅まで送ってくよ。蒼斗くんも帰るなら家近いから送ってくよ」
車で来ていた奈那が乗せて行ってくれると言ったので、私は甘えることにした。
「じゃあ俺もそろそろ帰ろうかな」
蒼斗くんがそう言うと、私たちは後片付けをした。
「お邪魔しましたー」
「また近々ね」
玄関を出ようとしたとき、そう言ったイチくんはいつもの笑顔だった。
帰りの車の中でも奈那はイチくんのことには触れず、くだらない話をしていた。
きっと蒼斗くんがいるからだろう。
「じゃあ気を付けてね」
奈那は駅前に車を停めた。
「ありがとう。またね」
私は車を降りて2人に手を振り、奈那の車を見送ると、駅に向かって歩きだした。
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