第38話 忙しない日々
慣れない営業部での仕事。
不穏な空気は続いている。
この部署が良い部署になんてなる筈がないことは新人の私にも予感していた。
あの日の黒石部長の言葉を聞いてしまったから……。
「一瀬さんとミーティング入りまーす」
ある日の朝、黒石部長から指名された。
「は、はい!」
「とうとうご指名だね。がんばって」
後ろから相良さんが耳打ちする。
私は慌てて手元の資料とボールペンを取ると黒石部長の後ろを付いていった。
会議室に入ると緊張感が高まる。
「おはようございます。本日の朝礼を始めます」
会議室に入ると椅子に座るわけでもなく立ったまま、黒石部長との朝礼が始まった。
「おはようございます。よろしくお願い致します」
私は頭を下げた。
「本日の営業部案件予算は何件ですか?」
それは容赦なく始まった。
「本日、10件でございます」
「では、今月は?」
「205件でございます」
1つ1つの質問に答えていくうちに黒石部長はどんどん早口になる……。
「それでは昨日の時点での案件獲得数前年比は?」
「55%です」
「それでは前年比を上回るために私たちはどうすれば良いと思いますか?」
私は一瞬言葉を詰まらせた。
「昨年の案件を見直し、今年まだ案件依頼がない企業様に当社での案件企画を打診していく、等でしょうか……?」
こう答えることで精一杯だった。
「それもいいかもしれませんね。では本日も1日よろしくお願い致します」
私の答えが正しかったのかはわからないが、そんな調子で初めてのご指名朝礼は終わった。
「よろしくお願い致します」
私はまた頭を下げると黒石部長と会議室を後にした。
「戻りました」
黒石部長はそう言うと、私にデスクに戻るように指示した。
「相良さん、ちょっといいですか?」
そしてすぐに相良さんを呼びつけた。
何となく嫌な予感がする……。
相良さんは一瞬私に冷たい視線を送ると黒石部長と出て行った。
しばらくすると2人は戻ってきたが、相良さんは何も言わなかった。
だけど、きっとこれからもこんな張り詰めたような毎日が繰り返される。
何かに怯えて、緊張して……。
これからどうなるのかなんて想像もできない。
そんな見えない恐怖やモヤモヤした気持ちがずっと心の中に棘のように刺さって抜けない。
***
「一瀬、キリが良いところで上がっていいよ」
定時を少し過ぎたところで相良さんがが言った。
黒石部長が早上がりをする日は私もわりと早く上がらせてもらえる。
「ありがとうございます。あと少しなのでこれだけ終わらせます」
「はーい」
そう言うと相良さんは席を立った。
私はやりかけの仕事を片付けてから、翌日の予算の確認をして、パソコンを切った。
「お先に失礼します。お疲れ様です」
誰からも返事がないことはわかっているが、一応そう言うと私は営業部を後にした。
女子トイレの前を通りすぎようとしたとき、聞き覚えのある声が聞こえた。
「今までの常識は通用しないし、取引先からもクレームが来てる。何とかしないといけないのはわかってるけど……」
「彩香さんにばかり本当に大変な思いをさせてしまって、申し訳ありません」
彩香さんと相良さんの会話だと気付き、私は立ち止まった。
「ううん。私は大丈夫。祐子ちゃんにも苦労をかけると思うけど……」
彩香さんがそう言うと、相良さんは首を振った。
そして彩香さんは続ける。
「だけど、美愛のことだけは……守りたい」
想定外の自分の名前……。
「ええ、わかっています。」
私のことは守りたい……?どういうこと?
戸惑いを隠せないまま、だけど怖くなって私はその場を立ち去った。
この部署は何かが変だ。
不安ばかりが大きくなる。
私がこの部署に来た意味は……?
そんなモヤモヤした気持ちを抱えながら私は会社を出た。
「新着メールが1件あります」
今はメールどころじゃないけど……。そう思いながらメールを開く……。
「これからイチくんと蒼斗くんと3人でご飯行ってくるね。美愛仕事忙しそうだけど頑張ってね」
相変わらずの文面に、もうため息すら出ない。
イチくんも仕事が忙しいことは知っていた。
でも、地元が同じ3人だから忙しい合間を縫って会えるのだろう。
「楽しんできてね」
私はそう返信すると、スマホを鞄に入れてまた駅に向かって歩きだした。
歩きながら、思い出すのは彩香さんと相良さんの会話……。
いつもならショックを受けている筈の奈那からのメールさえ、どうでもいいと思えてしまうくらいだった。
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