第46話 暗雲
イチくんから相変わらず返事をもらえないまま、毎日は過ぎて行く。
このまま会わなくなれば忘れられるだろうか……。
仕事に没頭していれば考えなくなるだろうか……。
だけどそんなほんの隙をついて、自転車の後ろから見えた大きな背中を思い出し、次の瞬間には奈那に視線を送るイチくんの横顔がちらついてしまう。
私は手元の書類に目を通して黒石部長のサインをもらいに行こうと席を立った。
その瞬間、社員から電話を引き継いだ黒石部長の顔が強張って、私はそのままストンと椅子に座った。
「え? 何でこんな忙しいときに? はぁー。うん……」
あからさまに不機嫌そうな表情を浮かべてメモを取る黒石部長の姿。タイミングが悪すぎる。
「あーうん。今日は来れないってことね。わかったわ」
しばらくして黒石部長は諦めたように電話を切った。
タイミングが悪いが今日中にサインをもらわないと。
私はしぶしぶ席を立つと黒石部長のデスクへと向かった。
「黒石部長、失礼致します。こちらにサインをいただきたいのですが……」
私は機嫌を伺うように書類を手渡した。
その私の様子に一瞬ムッとした表情を見せて黒石部長は書類にサインをした。
「そういう、なよなよした態度イライラするんだけど」
黒石部長はこう言い放つとサインした書類を私に手渡した。
「申し訳ありません」
私ははっきりした口調で謝罪をすると頭を下げた。
「それと、今日相良さんがお休みだからよろしくね」
その瞬間、さっきの電話の相手が相良さんだということを認識した。
「相良さん、どうかされたんですか?」
私が心配そうに尋ねると、黒石部長は
「お腹が痛いんだって」
と軽く答えた。
黒石部長のデスクに貼られたメモ用紙をちらっと見ると
「嘔吐、胃腸炎、高熱」
等、明らかに『お腹が痛い』では済まされない症状が羅列されていた。
私の目の前にいる人は人間だろうか?
体調不良も許されない……。私は背筋が凍るような感覚になったが、悟られないように表情を変えず
「かしこまりました。本日もよろしくお願い致します」
とまた頭を下げて自分のデスクへと戻った。
その瞬間、斜め前に座る木下さんに鼻で笑われたような気がした。
彩香さんも相良さんもいない営業部は私を一層不安な気持ちにさせる。
『そういう態度イライラするんだけど』
初めて営業部に挨拶に来たときに見せた優しい黒石部長の姿は幻だったのだろうか……。それとも仮面?
たった今言われたばかりの黒石部長の言葉が脳裏に張り付くようにリピートされる。
いつかの彩香さんと相良さんの会話を思い出す。
『美愛のことだけは守りたい』
私を守ると言うのは黒石部長からということだろうか?
ここは張り詰めていて息苦しい。
今すぐに逃げ出してしまいたくなる気持ちを押さえながら私は必死にパソコンに向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます