第2話


 来客を告げるカウベルが、カラロンと高い音を立てる。


「いらっしゃいませ。持ってきていただけましたか」


 音色とともにやってきたハリージュの背後はもう暗い。

 夜の森は、ここで生まれ育ったロゼでさえ怖くなるほど不気味だ。


「どうぞお入りください。お荷物をお預かりしましょう」

 手に持っていたランタンを受け取ると、睨み付けられた。魔女相手に無防備でいたくないのだろう。

 しかし、ロゼの表情は涼しげだ。常日頃から、魔女としてあまり感情が表に出ないように心がけている。


 ハリージュが渋々マントを脱ぎ、腰に下げていた革紐を解いて剣を外した。

 荷物を受け取りながら、ロゼはそっとハリージュの顔を盗み見る。


 わかっていたはずなのに、出てきた顔の美しさに、感嘆の息を漏らしそうになった。


 力強いが優雅につり上がった眉の下には、アーモンド型の瞳が煌めく。雪の降り注ぐ日の湖面のような群青色だ。整った形の耳は、夜の寒さにか先っぽが少し赤い。耳を守るように、灰色の髪がそっと寄り添っている。

 国一番の彫り師に彫らせた彫像のように整った顔は、鳥肌が立ちそうな程、美しい。しかし、その綺麗な顔にも、今はただ苛立たしげな表情が浮かんでいる。


 マントと剣をポールハンガーに掛ける。ランタンは火を付けたまま、暖炉の上に置いた。

 ハリージュが魔女の庵に身を滑り込ませ、後ろ手で扉をぴっしりと閉める。


 ここは用がないものは決して立ち寄らない、魔女の庵。

 ”湖の魔女”と呼ばれるロゼは、湖のど真ん中にある小島にたった一人で住んでいる。


 王都から外れた森の奥の、そのまた奥深く。

 人の目から逃れるように、そのあばら屋はひっそりと建っていた。


 森に囲まれた湖は、まるで大きな水たまりのよう。

 春は色とりどりの花が、夏は青く生い茂った緑が、秋は赤く萌ゆる木々が、そして冬は真っ白な雪が水面みなもを彩る。

 訪れるものは人よりももっぱら獣が多く、その獣もこの湖を越えてまでやってくるものは少ない。


 この庵と森を繋ぐのは、一艘の小舟だけだ。

 祖母の代から使っている小舟は、森から続く桟橋の係留用の杭に、係船索で繋ぎ停めてある。

 船頭なんて立派なものはおらず、魔女に依頼したいものはみな、自力でオールを漕いでやってこねばならない。

 湖に囲まれた小島にあるのは小さな庵と、女一人でも手入れできる程度の簡単な畑だけ。


 ロゼは魔女だ。


 魔女である母が産んだのだから、産まれた時からずっと、魔女である。


 幼い頃に母を亡くしてからは、祖母とずっと二人で生きていた。

 その祖母も四年前に土へと還り、今はロゼ一人きり。


 二人で過ごしていた庵は、一人になっても大きくは感じられないほどに狭い。

 小さなランプだけが照らす室内は薄暗い。

 秘薬を煎じるための魔女の大釜コールドロンが、床面積のほとんどの割合を占拠していた。

 壁はほぼ全面が、収納棚で埋まっている。棚には乱雑に本が並べられ、隙間からはポロポロと薬草や薬包紙がこぼれ落ちていた。

 棚の横にある大きな壺には箒やモップといった掃除道具以外にも、丸められた紙がくったりと首を折った姿で差し込まれている。


 足の踏み場を探さねばならないほど、床は荷物で溢れかえっていた。

 薬草や毛皮、更にはよくわからない干物が天井からぶら下がっており、不気味な空気が流れる。

 香りのきつい香辛料や獣油の香りが染みつき、独特な匂いが充満する。


 客のためのスペースは、玄関から入ってすぐにある小さなテーブルと、簡素な木の椅子のみ。

 そのテーブルもテーブルクロスなどは勿論敷いておらず、物置と化して久しい。


「では、確認させていただきます」

 ロゼが両手を突き出すと、ハリージュは魔女を見下ろしながら腰の皮袋を外す。


「襟巻き蝙蝠の超音波で酔わせた火鼠の肝、だったな」

 薄汚れた皮袋を何の躊躇もなく受け取る。

 本や薬草で混沌としたテーブルに隙間を作るため隅に押しやると、ハリージュが眉根に皺を寄せた。


 適当な場所を作ると、ランプを置く。

 オレンジ色の光がテーブルを照らす。ロゼは慎重に革袋を広げた。


「はい、間違いありません。さばく時に傷つけないよう、お気遣いいただいたようで。これほど綺麗な状態のものは久々に見ました」


 年頃の淑女なら単語を聞いただけで卒倒しそうな物を、無表情のまましげしげと見つめたロゼは、依頼主をついと見上げた。

 ハリージュは努めて冷静な態度を装って頷いた。


「これでようやく――」

「はい。ようやく次の素材をお願いできます。次は……」

「まだあるのか!?」


 大きな声に驚いて、小柄なロゼの体が指三本分宙に浮いた。

 ロゼ自身もぶかぶかのローブに包まれているため、ぶわっと衣が舞う。部屋の隅の埃が浮き上がる。


「これで何度目だ。前回は断崖絶壁の崖にしか咲かない花の花粉、その前は天から最初に落ちてくる雨粒、その前はどえらい悲鳴をあげる薬草の根。どれも手に入れるまでに時間がかかるものばかりなのに、どうして一度にまとめて言えない。これが王宮薬剤師だったら懲罰ものだぞ!」

 これまで辛抱強く素材集めに付き合っていたハリージュだったが、堪忍袋の緒が切れたのだろう。


 大きな一歩で距離を縮めたハリージュを前に、ロゼはフードを深く被って顔をおおった。


 ただでさえ小さなロゼが縮こまってしまうと、さらに小さく見える。

 ブカブカのローブの中でぷるぷると震えるロゼを見て後悔に襲われたハリージュは、慌てて腰をかがめる。


「……大声を出して悪かった」

「いえ、眩しくて……」

「は?」


「お客さん、顔がいいから」


 眩しっ、と目を細めるロゼの前には、ハリージュの美しい顔面が晒されていた。あまりにも美しすぎて、彼の顔がキラキラと光っているように見えてしまう。先程舞い上がった埃が、ランプの灯りに照らされて光っているだけだとは知っている。


「……何を言っているんだ」

 呆れが浮かぶその表情に、もう先程の怒りは微塵も見えない。この表情も素敵だなと、フードの隙間からチラ見する。


 惚れ薬を求めるのは、どんな人だろう。


 自分に自信がないのかもしれない。

 相手がよほど高嶺の花なのか。

 もしくは、すでにパートナーがいる人が好きなのかもしれない。


 どんな事情にしろ「惚れさせたい相手がいる」という点だけは覆せない。


 ――片思い相手が、突然家までやってきた。


 惚れ薬を作って欲しい、とやってきた。


 ハリージュは、ロゼが自分に片思いをしていることどころか、ロゼのことさえ知らなかったに違いない。

 なんと言っても、ロゼが以前街に出かけた際に、遠巻きに見て勝手に一目惚れしただけの間柄だからだ。


 世捨て人のようなただの魔女にできることと言えば、精々薬を手渡すまでの時間稼ぎ程度だろう。


 好きになって欲しいなんて考えてもいない。


 だけどその間に、ほんの少しでも覚えてもらえたら、それでいい。


 ちょっとぐらいのずるさはご愛敬だろう。

 出会い頭に惚れ薬をぶっかけなかっただけ、人間として褒めて欲しい。魔女としては失格だが。


「それで次の材料ですが、虹色キリギリスの触覚ですね。必ず満月の夜にむしってきてください」

 満月はつい先週に終わったばかりである。

 次の品を手に入れるまでに、まるまるひと月は時間稼ぎが出来る。


「ずっと空を眺めていろと……? 俺もそれほど暇なわけではないのだが……」

 ハリージュのこめかみに青い筋が浮かんでいる。太い血管だ。気を抜けば、ほうと見惚れてしまいそうなほど美しい。


 彼が暇じゃ無いことは、世間知らずな魔女でさえ知っていた。


 ハリージュ・アズムと言えば、こんな王都の外れからでも見える、立派な王宮に勤める騎士。

 超級のエリート騎士様だ。更にロゼの調べによると、彼の父親は貴族でもあるという。

 本来ならば、こんなあばら屋にこそこそと通うような御仁では無い。

 だからこそ、はじめて彼がこの森にやってきた時にロゼはあれほど驚いたのだ。


「そうですか……お時間がないのでしたら、仕方ありませんね。とても残念です」


 ロゼは眉を下げ、言葉の通り心底残念そうな顔をした。

 ハリージュが材料を用意せねば、この薬は完成しない。

 その意図と、魔女の確固とした「自分では材料を手配しないぞ」という信念を読み取ったように、ハリージュは特大のため息をつく。


 そのため息は、それほどまでに時間と金と労力を使ってまでも、彼が惚れ薬を欲していることを物語っていた。


 きっとそれほどに、振り向かせたい相手がいるのだろう。


「あぁっ! 勿体ない」


 落ち込む代わりに、ロゼは大きな声を出す。


「次にため息をつく場合は、是非教えてください。美しい男のため息は、薬の材料になりますから」


「絶対に言うものか!」




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