エピローグ 魔女
第31話
森の奥深くに、湖がある。
湖の真ん中には、小島が浮かんでいて、そこにはぽつんと魔女の庵が建っていた。
何十年も、何百年も前から変わらない景色だ。
古くからこの地に住む魔女は、時に人を助け、時に人を導き、時に人の欲を食んだ。
今日も魔女の庵に、一艘の小舟が辿り着く。
乗っていた男女は、手慣れた様子で舟から下りる。
桟橋から、庵まで何歩で辿り着くのかまで熟知している足取りで、女はとことこと歩いてきた。
庵の前に掲げられた「閉店中」の札を、くるりと回す。「開店中」となった看板を見て満足げに頷いた女――魔女ロゼは、首からぶら下げた鍵を取り出すと、ドアを開けて庵に入った。
ロゼの後ろから、カツンと足音が続く。
「休日の度に、一緒に来ていただかなくても、大丈夫なんですけど」
若干の呆れを滲ませながら、後ろからついてくるハリージュに、ロゼが言う。
「お休みの時くらい、ゆっくり休まれたら……」
「ゆっくり休むつもりで来ているから、問題ない」
持ってきたバスケットから、ハリージュが赤いランチョンマットを取り出す。大きな手でテーブルの縁まで撫で伸ばされ、皺ひとつ無く整えられる。洗いたての、いい匂いがする。
籠からも本を取り出すと、ハリージュは椅子に座った。小さな窓から陽が差し込む、いつもの席だ。
ハリージュの特等席になったこの席で、ロゼの邪魔をすることなく、ロゼと一緒の時間を過ごすのが、最近のハリージュの休日の過ごし方になっていた。
ハリージュに配属についての辞令が下ったのは、ビッラウラを国境まで送り届ける任務後――つまり、あの盗賊事件と恐ろしい惚れ薬誤飲事件があってから――すぐのことであった。
今はまた騎士として、変わらず王宮に勤めている。
何故ロゼがハリージュの事情にそれほど詳しいのかというと、現在、ロゼはハリージュのもとで、食客として世話になっているからだ。
魔女が強大な力を振るっていた時分ならいざしれず。
ロゼの家は、あまりにもセキュリティと無縁と言えた。
防犯意識もなく、強い風が吹けば吹き飛んでしまいそうなあばら屋に、なんの憂いも無く長年過ごしていたが――易々と侵入者を許してしまった後では、いくら生まれ育った家とは言え、ロゼも不安を感じていた。
だからといって、湖の庵から離れるのは、簡単なことではない。
ここは代々の魔女が守ってきた地であるし、ロゼにとっても、生まれ育ち、愛してきたかけがえの無い場所だ。
――ということを、ハリージュは知っていたのだろう。
まだ求婚に対する返事もしていないのに、こんな辺鄙な場所の、こんなあばら屋に住むと言い出した時には、ロゼは目玉が落ちてしまいそうなほど驚いた。
『いやいやさすがにそれは。こんなあばら屋に! 狭いし、ベッドもひとつしか置けないし! それに、結婚とかもまだよく、わー!』
でもでもだってと、ぐだぐだを繰り返した結果、折れたのはハリージュだった。
『結婚云々は、気持ちを知ってくれていれば、ひとまずいい。なら、夜だけでも、屋敷に部屋を用意させてくれ』
それならまあ、出来なくともない。
生まれついてからの引きこもり魔女は、何よりも”変化”が恐い。
ロゼは渾身の力を使い、僅かな首の動きだけで承諾した。
それからというもの、ロゼはハリージュの屋敷に住まいながら、日中は庵で魔女として過ごしている。
ロゼが魔女の庵に帰る時には、ハリージュの屋敷の使用人が、護衛として付き添ってくれている。
ロゼが驚いたのは、なぜか村人達が友好的になっていたことだった。
ハリージュの説得が効いたのか、ハリージュの屋敷の食客としての身分を得たからなのか、ロゼが恐ろしく見えなかったからなのかは、わからない。
だが、時折ロゼを気にかけ、村の人達は森の奥深くまで見に来てくれる。
湖は子供達の遊び場になっているようで、時折、庵の前に、森の木の実が置かれていることもあった。
「いたっ……」
「大丈夫か」
「ええ。いつものことです」
庵が散らかっているのは相変わらずだ。
足で蹴ってしまった壺を、元の位置に戻す。壺を持った時に、ふと足下に目がいった。
ロゼは新しいブーツを履いていた。
ビッラウラに靴を贈ったロゼのために、ハリージュが用意してくれていたのだ。
以前の味も素っ気も無いブーツとは違う。
実用性を重視しながらも、女性の足を飾るに相応しい、繊細さを兼ね備えていた。手入れを続けていれば、何年でも役目を果たしてくれるだろう。
小さなガラスビーズが、蔦模様に刺繍されている。歩く度にきらきらと光るそれを、ロゼは大層気に入っていた。
「あ、そうだ。ハリージュさん。ポストを見てきてくれますか」
二十四時間対応が出来なくなった魔女の元にも、魔女の秘薬を求め、未だ客はやってくる。
そういう時はポストに用件と、次に訪れる日付を書いてもらうように、看板に書いておいた。
ポストの鍵を渡すと、ハリージュがポストから手紙を取り出してきた。
手に持っているのは一通。
レタス色――いや、やわらかな、春の新芽色の封筒だった。
「ありがとうございます……あら、ラウー様」
宛名を見たロゼが呟いた名に、ハリージュがぎょっとした。
「俺の所にも、まだ手紙など届いていないぞ!?」
「女の子は早熟ですからね。兄離れも早いのでしょう」
中の便せんを破かないように気をつけながら、ビリビリと封を開ける。ペーパーナイフなんてものはない。
ラウーの手紙は読みやすく、手紙のやりとりなど慣れていないロゼでも楽しめた。
季節の挨拶から始まり、最近の出来事などが面白おかしく書かれている。
「手紙はその、よく来るのか?」
「これで三通目ですね」
「……殿下が知ったら泣くぞ」
ビッラウラにとって一番年の近い兄である第二王子は、ハリージュの幼馴染みだ。そしてハリージュは新たに、第二王子付きの近衛騎士となっている。 主人を不憫に思ったのだろう。ハリージュは痛ましそうな表情を浮かべた。
「……あらあら」
「どうした。何があった」
手紙を読んで、ロゼは思わず呟いた。
これを伝えたら、ハリージュはどれ程慌てるだろうか。顔をきゅっと強張らせ、笑みを堪える。
「おめでたなようです」
「何がめでたいんだ」
「ですから、ラウー様が。ご懐妊だと」
ハリージュは目を見開いた。
口をぽかんと開け、絶句している。
予想通りの反応に、ロゼは滲み出そうになる笑顔を、我慢するのに必死だ。
「薬もお役に立ったようですね。手紙を読む限り、ラウー様も望まれてのことだったようです」
手紙に綴られていた、ニフリート王とビッラウラの馴れ初めに、ロゼは頬を緩める。
ニフリート国の王は、公務中に出会った幼い頃のビッラウラに、かつて亡くした妻の面影を見たらしい。
ビッラウラが成人するまで待った王は、若いビッラウラに多くを遺せるよう、国を通して正式に求婚した。
ビッラウラが綴る結婚後の話から推測するに、老齢の王は、彼女との恋愛関係を望んだわけではなかったようだ。
そんな献身的な王の愛にじれ、最終的に、「ずっとこのままなら薬を飲む」とベッドの上で脅したのは、ビッラウラだと言う。
哀れなのはニフリート王だ。
幼妻が国から密かに持参した秘薬。
自死用の毒薬と勘違いしても、致し方ない。
長年望んだ大事なビッラウラを、服毒死させるわけにはいかない。
ニフリート王はビッラウラの薬を奪い、彼女がもう二度と飲めないようにと――彼女がもう、二度と飲みたくなることの無いようにと、自らが呷った。
それが何の薬か、知りもせず。
「相手は、四十も年上だぞ!」
「愛があれば、っていうものですよ。ハリージュさん」
ビッラウラが冷遇されることなど望んではいなかっただろうが、あまりにも早い知らせに、ハリージュは二の句が継げないようだ。
王の年を考えると――これはもしかしたら、男性にとって実用的な方の薬の注文も入るかもしれない。準備しておいて損は無いだろう。ロゼが費用の胸算用していると、聞き慣れた音がした。
――チリン
来客を告げる鐘が音だ。いつものように窓を覗く。
そこには、こちらを見て大きく手を振る男がいた。
男の横には、ロバが三頭もいる。その全ての背に、山ほどの荷物を積み上げていた。
「……」
片手に顔を伏せるロゼの隣から、ハリージュも窓を覗いた。
肩と肩が触れ合う。
「あの男……」
「ティエンを知っているのですか」
「以前、ここですれ違ったことがある」
「ああ、そういえばそんなことも……」
ハリージュに返事をしながらも、ロゼは上の空だった。
ロゼの薄紅色の髪を、ハリージュがすくう。指で一房弄びながら、ハリージュは不機嫌そうに窓の向こうを見ている。
「なんだあの荷物の山は」
「あれは、ええっと……」
ロゼは返事が出来ず、困り顔を浮かべた。
髪をツンツンと引かれる感触も気になるが、それよりも切迫した問題が森の向こうにいる。
「まさか、贈り物だとか言うんじゃ無いだろうな?」
また返事が出来ずに、ロゼの首がドンドン垂れていく。
「断ってくる」
「あの、それは、えっと、えーっと!」
「必要なものがあれば、俺が揃える。あんたはもう、他の男から贈り物を受け取るな」
相変わらず上から目線だが、ハリージュの言葉に嫉妬を感じ、ロゼは首まで赤らめる。
だが、それでもハリージュの言うとおりにするわけにもいかない。
ロゼは両手で顔を覆った。
「あれはその、贈り物というか、えーっとその……」
「なんだ」
「つまり、その……」
「ああ」
「親代わりの……つもりなんです……」
「は?」
「ティエン……彼には、幼い頃からよくしていただいてて……その、祖母から今際の際に、私のことも頼まれていたらしく……」
「ああ」
「だから、その、多分アレは……」
くそう。ティエンめ! 何故よりにもよって、今日やってきたのだ。
ロゼは心で悪態をつく。
今までも何度か小包を寄越していたが、今日はその比では無い。それに、こんな場面を見られては、ハリージュに隠し通すことも難しい。
観念して、ロゼが叫ぶ。
「あれはだから――私の、持参金のつもりなんです!」
ハリージュは微妙な顔をしてティエンを見た。
だが、それ以上は何も言わなかった。
持参金とは、嫁ぐ時に女側が用意するものである。
つまりはロゼも、そういった気持ちでいるということに、他ならない。
森の木々に、そろそろ白い花が咲く。
それは赤く甘い実をつけるに、違いなかった。
おしまい
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