第二部
プロローグ 魔女の旅立ち
第32話
コポポ、と水が音を立てる。
硝子瓶の中で光が躍り、最後に一度大きく跳ねて、ポワンと消えた。
つぶさにその様子を観察していた緑色の瞳が、細く歪む。
三日月のようなその目は、己の成功を確信していた。
***
脱いだローブを、雑に畳んでバッグに詰め込む。ブーツのつま先を、トントンと二度、床板で叩いた。
必要最小限の荷物だけを詰め込んだバッグは、ロゼが簡単に背負えるほどに軽い。家中の窓を分厚いカーテンで覆った室内は、まだ昼だというのに真っ暗だ。
永久の別れでも無いというのに、ほんの少しもの悲しい気持ちを抱えてしまう。
「……じゃあ」
室内を見渡したロゼは、ぺこ、と小さく頭を下げる。
勿論庵からは、何の返答もない。
ただ静かに佇んでいる空気は、何も言わない代わりに、ロゼを責めることも無かった。
ドアを開けると、春の爽やかな空気が吹き抜ける。大きく息を吸い込んだロゼは、扉に貼り紙をして湖を後にした。
今日は、ハリージュの屋敷に移り住む日――ロゼの門出である。
長年片思いをしていたロゼは、ハリージュに依頼された惚れ薬をきっかけに、なぜか彼と思いを通じ合わせることとなった。
あまりにも急速な求婚はひとまず待って貰っているものの、泥棒被害にあったこのあばら屋に住み続けることを心配したハリージュの厚意に甘え、食客として彼の屋敷に夜の間だけ世話になることとなっている。
昼間はこれまで通り庵にいるとは言え、拠点を動かしたことなど考えたことも無いロゼにとって、新天地には若干の不安も感じている。
果たしてここを離れることが正しいことなのか、庵を出た今でさえ自信は無い。
だが少なくとも、ハリージュを信頼すると決断した、自分の決意は信じられる。
ハリージュの屋敷には、今日から世話になることになっている。屋敷のおおよその場所は、以前一緒に街に出かけた時にハリージュから聞いていた。
どうやらアズム邸は住宅街ではなく、喧噪から少し離れた場所に建っているようだった。ロゼの庵がある森からも、それほど遠くない。
行き道も同時に教えて貰っていたので、辻馬車を利用すれば、ロゼでも一人で辿り着けそうだ。サフィーナが午後から迎えに来てくれることになっていたが、屋敷の仕事がある彼を呼びつけるのもどうかと思い、ロゼは一人で行くことを選んだ。
午後までに辿り着けば問題ないはず。そう考え、庵を出たのが朝の水やりを終えてすぐ。
そして現在――少々家畜小屋を通り抜けたり、茂みの中などを突き進んでは来たが――およそ何事もなく無事に、昼前にはハリージュの屋敷に辿り着いていた。
「でっ……かい……」
頭についていた葉っぱを払い落としながら、ロゼは呟いた。
「黒い屋根って、言ってたよね……」
キョロキョロと周りを見渡しても、他に黒い屋根の屋敷は無い。
目の前にそびえ立つ屋敷は、予想はしていたが、想像以上の大きさだった。ロゼの家がいくつも入りそうなほど、大きな屋敷だ。
熟練の職人により精巧に仕立て上げられた屋敷は、一つの芸術品のような美しさだ。信じられないほど背が高く、驚くほどの数の窓がある。
これまで様々な客と接してきたが、客の屋敷に招かれたことも、赴いたことも無い。そのためロゼは、貴族の屋敷というものを、想像の中でしか知らなかったのだ。
茂みに囲まれた広い庭の奥には、厩がある。どうやらこの屋敷には、鶏小屋まであるようだった。鶏は、祖母が存命の時にロゼも庵で飼っていたことがある。胸が躍る。
そっと金網に近づくと、鶏たちがバサバサと羽を広げてロゼを歓迎する。懐かしい、泥や餌や糞が混じった、独特な家畜臭い匂いが立ちこめた。
胸いっぱいに吸い込みながら、ロゼは落ち着いたらあとで見せて貰おうと決意する。
屋根で遊ぶ風見鶏の隣には、立派な煙突が聳えていた。もくもくと煙が上がる。昼食の準備をしているのだろう。
今日の食事は何だろうか。ついロゼの鼻がひくひくと動いた。
ハリージュが手土産にと持参してきた数々の美味しいご飯を思い出しながら、ロゼがのんびりと煙を眺めていると、屋敷の内側からドアが開いた。
ドアを開けたのは、手に荷物を持った年嵩の女性だった。地味な色のドレスにエプロンを着け、頭には白い頭巾を被っている。
女性はロゼに気づくと、訝しげな顔をした。
「そんなところで……誰だい? なんか用事かい?」
「あの、こちらはアズム様のお宅で間違いないですか?」
「そうだよ」
「こんにちは。今日からこちらでお世話になることになった――」
ロゼが最後まで言い終える前に、女性は大きく頷いた。
「なんだ! ちょっとお前さん、遅かったじゃないか!」
威勢よく怒鳴られて、ロゼは面食らった。
口調ほど怒っている風では無いが、手放しで歓迎している様子でも無い。女性は大きな身振りで「こっちへおいで!」と手招きをする。
ロゼはピッと背筋を伸ばすと、早足で女性の元に駆ける。
「全く、初っぱなから遅刻するなんて。うちの旦那様が寛大なことに感謝するんだね」
早く来たつもりだったので、まさか遅れているとなじられるとは思わずに、ロゼはびっくりする。
女性はロゼの様子に気づいていないようで、庭にある木箱に、手に持っていた生ゴミを入れながら話を続けている。
「私の名前はターラ。ターラさんとお呼び」
「ターラさん」
「全く、こんなちんちくりんだなんて聞いてなかったよ。それに、どこもかしこも薄汚れてるじゃないか! 早くしな。こっちだよ」
ロゼは急かされるままに、そそくさとターラの後に続いた。
屋敷の中に入ると、すぐに台所だった。清潔な水場や、いくつもの調理器具が置かれたテーブル、そして大きな調理用の石窯がデンと構えている。
何より一番とっても大事なのは、ふわんと甘い、いい匂いが充満していることだ。
すんすん、と鼻を動かして匂いを嗅いでいると、先に食堂から出ていたターラが、戸口からこちらを振り返っている。
「こっちだよ」
「はい」
甘い香りでロゼを誘惑する林檎のコンポートに別れを告げると、従順にターラの背を追った。
外から見てもわかっていたことだが、中も驚くほどに大きかった。ターラについて廊下の端を歩きながら、ロゼは目をまん丸にして眺めた。
そこかしこに作られた窓から差し込む陽の光が、屋敷を満たす。屋敷の中は、品のいい調度品で揃えられていた。
てっきり、真っ白い漆喰が塗り固められているだけだと思っていた天井には、芸術的な模様が彫り込まれている。
ぽかーんと口を開いて天井を見上げていたロゼを、ターラが手招きする。
飴色に光るほど磨き上げられた階段を上りながら、極々潜められた声で話しかけてきた。
「名前はなんだったかね、モレ?」
「ロゼです」
了承の意を示すようにターラが小さく頷く。
――もしかして、使用人として住み込むことになるのだろうか。
夜だけ屋敷に住ませてくれと頼んだのを、そういう風に受け止められたのかも知れない。
それならそれで頑張るしかないな、とターラの白髪交じりな後ろ髪を見つめ、ぼんやりと思う。
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