第33話
「ここだよ」
前を歩いていたターラが足を止めた。
簡素な造りの扉のノブを、ターラのふくよかな指が捻る。促されるままに入ると、廊下までの豪華さとは打って変わって簡素な部屋だった。
地味なベッドとクローゼット、そして小さなデスクが一つあるだけのあまりにもシンプルな内装だ。
部屋の大きさは庵よりもずっと小さいが、寝るためにベッドの上の物を退けなくてもいい清潔さがある。小さな窓があり、そこからきちんと陽も入るようだ。
ターラがクローゼットを開ける。ポールには、綺麗にアイロンのかけられた数着のお仕着せが吊されていた。
素朴な生地の、けれど若い娘が着るような柔らかい色合いのドレスを、ターラが次々にロゼの体にあてていく。
「使用人はロゼを入れて五人。旦那様はほとんどご自分のことはご自分でなさるからね。さほど手がかからないのさ――顔は上げたままにしてな」
ターラの手元を見ていたロゼは、言われるがままに前を向く。
「庭師は月に四度。通いの馬丁はいるけど、御者はいない。うちは男達が皆馬車を動かせるから、何か遠くまでの用事を言いつけられた時には、サフィーナさんから許可さえもらえば馬車を出してもらえるよ」
「はい」
「同僚は少ないから、すぐに覚えられるだろ? ロゼは産休に入った子の後釜だ。キビキビ頑張んな――よし、このサイズだね」
ロゼに渡されたのは、クリーム色のお仕着せだった。薄い水色の小花が散っている。青色のエプロンに、胸元に詰める生成りのネッカチーフ、揃いの生地で作られた頭巾も渡された。
「旦那様に恥をかかせられないからね。ロゼもピシッと着ておくんだよ。午後の服と正装用のお仕着せも、あとで同じサイズのものをクローゼットに入れておくからね」
「はい」
「ちゃちゃっと着替えて、厨房に戻ってきておくれ。今日からお嬢様がいらっしゃるから、てんやわんやしてるんだ」
――今日からお嬢様がいらっしゃる。
その言葉を聞いて、ロゼはようやく現状を把握できてきた。つまりロゼは、今日の早朝に来ているはずだった、新しく雇う予定の使用人と間違われているらしい。
どうやら一応、本物のロゼはこの屋敷に客人として迎えられるようだ。
ほっとしているロゼに、ターラが神妙な顔をする。
「ロゼもここで働くんだから、知っておきな」
ターラは言葉を止め、少し迷ったように眉を下げた。
「……今日からいらっしゃるお嬢様は、魔女だっていうんだ」
表情を変えずに聞いていたロゼだったが、内心かなり驚いた。
ハリージュが――既に正体がばれているサフィーナ以外の――使用人に、ロゼを魔女だと伝えているとは、思っていなかったからだ。
――私は真実、彼のそばに”魔女”のままでいていいのか。
貴婦人としてこの屋敷に迎えられたのでは無いと、何度自分に言い聞かせていてもロゼの不安は消えなかった。
完全に、煮え切らない自分のせいなのだが、ロゼはこの屋敷でどういう立ち位置でいればいいのか、わからなかったのだ。
ロゼとて、屋敷の主人の求婚相手が、ローブをずるずると引きずりながら、動物の肝をすり潰すわけにもいかないと、遠慮する心ぐらいは持ち合わせていた。
運びきれなかったため、調理器具は持ってきていないので、ここで調合を始めることはないだろうが――屋敷にいる間は、まともな人間のふりをする覚悟があったロゼは、ハリージュの寛容さに感銘を受ける。
「旦那様が選んだ人だから、大丈夫だとは思うけどねえ……でも、怒らせたり、機嫌を損ねたりするんじゃ無いよ。そうじゃなきゃあんた、杖の一振りで蛙に変えられちまうからね」
そんなに強力な魔法が使えるのは、大昔の大魔女だけだろうが、ロゼはしっかりと頷いた。
抱えていた不安を他人に打ち明け、どこかほっとしたようにターラが笑う。
魔女に対する恐怖はやはり抱えているようだ。しかしそれを覆すほど、ハリージュを信頼しているらしい。
渡されたお仕着せを持ったまま動かないロゼを見て、部屋を出て行こうとしていたターラがきびすを返した。
「もたもたするんじゃないよ、全く。それに、なんだい。随分痩せ細って……前のお屋敷じゃろくに食べさせてもらえなかったのかい?」
ぐいっと距離を縮めてきたターラが、ロゼの両頬を掴んだ。右や左に振って、ロゼの顔をしげしげと見る。
「この顔じゃ、やっかまれるのも仕方ないね」
ターラはロゼのドレスを一気に引き下ろした。誰かに服を脱がされた経験など、ここ最近無かったロゼは、驚きに声も出ずに直立している。
「前のお屋敷の奥様がいい方でよかったじゃないか。ずいぶんな推薦状だったよ。執事のサフィーナなんか、面接もなしに一発でお前に決めたんだ。しっかり働きな。働き次第では、産休の子が帰ってきた後も、旦那様が取り立ててくれるだろ」
マネキンのようにただ立っているロゼに、ターラはテキパキと服を被せていく。
「ロゼはお嬢様付きの侍女として雇われたようだけど、うちはさっき言ったとおり人数が少ないからね。火の守りも掃除も洗濯も料理も買い出しも、全部の仕事を一通りやってもらうことになるよ」
最後にネッカチーフを胸元に押し込むまでに、ものの数秒もかからなかったように感じた。おしまいの合図とでも言うように、ターラはパンパンッとロゼの胸を叩く。
「毎年、星夜祭の次の日は使用人にも休みとプレゼントをくださる。こんないい旦那様は、どこを探してもいやしない。それに、とびっきりに格好いい。頑張るのはいいけど――あんた、惚れるんじゃ無いよ」
鋭く睨まれ、ロゼはシャキンと背筋を伸ばす。
返事は「はい」とも「いいえ」とも、出来るはずも無かった。
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