第59話

「この国でいう結婚とは、両人の合意を受け、法に基づき、神の名の下で夫婦になること。夫婦とは社会的にも経済的にも結合した二人であり、夫と妻はそれぞれに義務や権利を持つ……ということで、あってますか?」

「ああ。あっている」


 ロゼは以前、ハリージュが言ってくれた言葉を思い出した。


『変わらない約束は、結婚しか与えてやれない』


 あの時のロゼはいっぱいいっぱいだった上に、結婚のことをよくわかってもいなかったので、なんとなくしか伝わっていなかったが、今ならわかる。


 ロゼが開いたページには、死別についても書かれていた。初めてそれを見た時ロゼは、あまりにも驚いて数度同じ箇所を読み返した。


 本曰く、夫婦のどちらかが死んだとしても――結婚状態は継続したままだという。


 多くの動物は、死んだ伴侶に操を立てることは無い。雌が死ねば、新たな雌に子を産ませる。骸に捧げ続けるものなど、なにもない。


 なのに人間は、死んだ後も己の未来と責任を捧げ続け、”夫婦”という形を保つのだという。


 変わらない約束とは、本当にずっと変わらないものだった。何年経っても、何十年経っても、たとえハリージュが死んでしまったとしても、変わることの無い約束を結んでくれた。


 ロゼは嬉しかった。初めて「結婚してほしい」と言われた時よりもずっと、嬉しかった。


「――……それから人は、法以外の概念も結婚と呼ぶことを知りました。私の知る既婚者は、結婚してもなお”魔女の秘薬”を求めに来る道徳的に問題のあるお客様ばかりなので、他の人に尋ねてみました。といっても、屋敷の皆さんなのですが」


「信頼できるだろう」

「私もそう思います――おかわりはいりますか?」

 ハリージュのカップが空になっていることに気付き、ロゼは尋ねるが、ハリージュは首を横に振った。


「いや、十分だ」


 普段のハリージュならば、あと二杯は飲んでいるのに。ロゼは「そうですか」とだけ答え、話を続けた。


「まず、モナに尋ねました」

 モナとはまだ打ち解けてはいない。だが最近では、屋敷の中で顔を合わせても表情を引きつらせなくなった。

 魔女への恐怖心は消えずとも、もしかしたら不快感は減っているのかもしれない。

 その証拠に、神妙に尋ねるロゼに、モナは戸惑いながらも真剣に答えてくれたのだ。


「彼女は結婚を『将来の安定』と言いました」

「そうか」


「次に、サフィーナさんに尋ねました」

 ちらりとロゼはハリージュを見た。

 今日は――明日も明後日もだが――男の話を聞きたくないと言われていたからだ。

 ハリージュに何の反応も無かったため、ロゼは続けた。


「彼は結婚を、『愛の土壌』だと言いました」

 下僕フットマンの二人にも尋ねたのだが、なんと言っていたか忘れてしまったので、話題に出す必要はないだろう。


「最後にターラさんに尋ねました。彼女は結婚を、『歩み続けること』だと言いました」


「それを聞いて、どう思った」

「回答はそれぞれ違いましたが、誰も間違っていないのだろうと思いました。結婚とはそうして、二人で作っていくものだと思ったんです。だから……」


 ロゼはブランデーの入ったカップを手にすると、くいっと呷った。


 そして、カップの底を見つめたまま言う。

 勇気を振り絞らなければ、到底話せるとは思えなかった。


「結婚を……こういう話を、貴方としていることがもう――私たちにとっての結婚であると、私は、そう思いました」


 いつの間にかロゼとハリージュは互いにわかり合うために、気負わず、厭わず、言葉を交わすようになっていた。

 ロゼはハリージュを思い、彼もまた自分を思ってくれていることに、確信を持てるようになっていた。


「そうか」


 温め直したココアよりも優しい声が呟かれた。


 ロゼ自身が知らないうちに、ハリージュに助けられていることはきっと山ほどあるのだろう。庵の中でだけ生きてきたロゼは、外のことをほとんど知らない。国や騎士や貴族のことなど、それ以上に知るはずも無い。


 その一つ一つを全て把握し、肩代わりするのは、きっと無理なことだ。ハリージュに今から魔法を使えと言っているようなものである。だが――


「何かあれば、言ってください。私は人のことも知らず、世のことも知りませんが、貴方のことを知らないままでいたいとは思いません」


 ハリージュと同じ場所に立ち、同じ考え方をすることは出来ないだろう。それでも、ハリージュと目的を共有し、ハリージュを支え、ハリージュが感じたことを理解することは、きっと出来る。


「歩く道のりが違っても、向かう先が同じなら、きっとそれが『結婚』なのだと……そう、思います」


 これまで根無し草のように、流れるがままに生きてきたロゼが、将来のことを初めて真剣に考えた結論だった。


 ロゼの話を聞いていたハリージュは、いつまでたっても返事をしなかった。

 息苦しい沈黙だった。


 ブランデーの香りが充満している。ロゼは己の出した結論が、ハリージュの描くものとは違ったのだろうかと不安になり、顔を上げた。


 けれどハリージュは、優しい目をしていた。

 そして、外の雨の音など聞こえていないのではと思うほど真っ直ぐに、ただロゼだけを見ていた。


 それは、これまできっとロゼが見たことも無いほどの慈しみと、深い愛情に溢れた顔だった。


「どう、しました」


 尋ねる声は掠れていた。


「抱きしめたいなと」


 いつもは確認を取ることもなく抱きしめるのに、何故今日は控えているのかと、ロゼは不思議に思い小首を傾げる。

 ロゼの疑問を感じ取ったのだろう。ハリージュは唇に薄い笑みを浮かべて、首を横に振る。


「ここには、誰もいない」


「はい」


「抱きしめるだけで、耐えられる自信が無い」


 ランプの光を受けた瞳が、キラリと光った。獰猛なほどに熱い。群青色の瞳は熱を孕み、蠱惑的に潤んでいる。

 あるはずもないのに、瞳の中で小さな熾火が、ゆらゆらと燃えているようだった。


「こんな愛を受けたのは、初めてだ」


 惚れ薬も飲んでいないのに、くらくらとするような愛の熱が伝わってくる。

 呼吸が上手く出来ない。


 低く、しっとりと濡れた声でハリージュが言った。


「早く式を挙げような」


「……へい」


 へい。

 ロゼはもう一度、呟いた。


 ハリージュの顔はもう、見られなかった。




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