第60話
夜遅くに、雨は止んだ。
こんな夜更けではもう辻馬車も運行していない。ということは、アズム邸に帰るとなれば徒歩である。
真っ暗闇の雨上がりの森を歩いて帰るか迷っていると、カンカンと鐘を鳴らす音がした。
よほど心配していたのだろう。森まで迎えに来たサフィーナが、桟橋の向こうで大きなランタンを掲げて手を振っていた。ランタンの縁に金属を打ち付けて、音を鳴らしたようだ。
ロゼとハリージュは二人で小舟に乗った。あんな話をした後にのうのうと眠るわけにもいかず、ロゼとハリージュは結局一睡もしなかった。
眠気を感じたロゼが、ふぁあと欠伸をこぼす。
「眠いか。家に帰ったら少し眠るといい」
「すみません」
「何故謝る」
「私は休めても、ハリージュさんは――」
無駄に一晩経ってしまったせいで、もうすぐに出勤しなければならない時刻だろう。今日の昼にはまた仕事に出ると言っていたハリージュを案じ、ロゼは言葉を濁す。
「心配することはない、睡眠よりもずっと、いいものをもらった」
馬車に乗り込んだロゼの頭を、ハリージュがポンと叩く。それがなんなのかは、ロゼは考えないことにした。
馬車が動き始めると、ロゼはごそごそとローブの中を漁った。
「丁度庵に作り置きがあったので、”眠気覚ましの薬”を持ってきました。それと、”元気になる薬”も。どんな薬師の薬よりも、効きますよ」
「ありがとう」
特別に差し上げます、とロゼが差し出した薬瓶を、ハリージュは嬉しそうに受け取った。近すぎる距離でイケメンオーラをまともに食らってしまい、ロゼは顔をギュンと勢いよく逸らした。
「ハリージュさんは、丸くなりましたね」
「丸く?」
ハリージュが心外そうに頬を触る。身体的なことを言っているわけでは無いと、ロゼは首を横に振った。
「言動がです」
「変わっていないだろう」
「変わりました。以前はもっと……自分の意思のままに動いていました」
上から目線で他人の意見を聞こうともしない――とはさすがに告げられず、婉曲にしたつもりだったが、あまり違わなかったかもしれない。ハリージュは口をへの字に曲げている。
「人のことを言うが――あんただって、出会ったばかりの頃は散々だったじゃ無いか」
「何がです?」
「聞き慣れない薬の材料を、わざわざ一つずつ――」
「あああああああ」
己の黒歴史を思い出し、ロゼは咄嗟に蹲った。
「……なんでそんなに動揺するんだ」
まさか、ハリージュと会う回数を増やすために、小まめに注文を出していただなんて知られたいはずが無い。ロゼは勢いよくブンブンブンと首を横に振る。
「丸く――まぁ、そうかもしれないな」
挙動のおかしいロゼから視線を逸らしたハリージュは、、窓の向こうを見つめた。ロゼも体を起こして、窓を見る。夜の森は何も見えないが、ハリージュには何か見えているようだった。
「俺は自分が正しいと思ったことをなしている。そういう環境で育てられ、そういう風に育った。これは今さら変えられない。ただ……俺にとっては正しくとも、今のあんたにとっては正しくないこともあるのだろうと、知った」
ロゼは微かに頷くことで、話の続きを促した。
「俺には騎士という力と、男の義務と、あんたに惚れられているという自信がある。だから、無理にあんたを動かすことも出来るだろう。現に、あんたが屋敷に来ると言い出すまで、俺は本当にあの庵に乗り込むつもりでいた」
色々と突っ込むところだが追い付かずに、ロゼは唇を真一文字に引き結びながら、ハリージュの言葉を聞く。
「だが、あんたが考え、判断することは――尊重すべきことだと気づいた」
愚かだった自分を見つめることは、苦痛を伴うとでもいうかのような顔で、ハリージュは呟く。
「……何故ですか?」
「あんたが、俺をハリージュさんと呼んだからだ」
そんなことに、一体なんの意味があるのかと、ロゼは小首を傾げた。
「きっと名を呼べと強制しても、あんたはハリージュ様としか呼ばなかっただろう」
嬉しそうに顔をほころばせるハリージュに、ロゼは顔を赤くする。
「あれは、街の人達がハリージュさんをそう呼んでいたので……その真似をしただけで……」
「そうなのか。きっとそれが殿でも卿でも君でも、何でもかまわなかっただろう。あんたが俺とのことを考え、決めてくれたことが嬉しかったのだから」
「……そうですか」
なんて殺し文句を言うのかと、ロゼは拳を握りしめて俯いた。今うっかり顔でも見てしまったら、もしかしたら自分の体が四散してしまうかもしれない。
「そしてあんたにも……考え方や、生き方があるのだと気づいた。――傲慢だったのだろうな。俺は男だから、そして人の世に詳しいから、あんたのことを導き守らなければと思っていた。そのためには、多少我慢させることも仕方が無いとも……でもそうしなくて、よかったと今日、あんたの話を聞いて心底思った。俺も……たとえ歩き方が違っても、同じ方に歩いていきたい。あんたとそういう、結婚生活を送りたい」
大切にされているのだと、ロゼは素直に理解した。
ハリージュの瞳は、馬車に吊された小さなランタンの光を全て集めたかのように輝いていた。ロゼを見つめる目は優しく細められている。
耐えきれず、ロゼは自分の両頬を指で強く引っ張った。
「……何をしている」
「どうせ無残にはじけ飛ぶなら、自らの手でひね千切ってやろうかと……」
「は?」
「ハリージュさんの、顔が、顔が……」
「あんたなぁ。こういう話をしている時に……」
「いいえ、ハリージュさん。貴方はわかっていませんね。こういう話をしている時のご自分のご尊顔の破壊力を。私はいたってまともな神経をしています。貴方のお顔の輝かしさが……」
「あー、わかった。わかった。あんたが俺の顔をどれほど好いているのかは、よーっくわかっている」
そう言われては、ロゼは何も言い返すことが出来ない。あまりにも途方も無い真実で殴られ、何かを言い返したいのにどうにもならずに歯を食いしばる。
「この干しナメクジうんこ丸……!」
「否定も出来ない真実だろう」
ロゼは魔女だ。魔女は嘘をつけない。
ロゼはふるふると体を震わせた。
「干しナメクジてんこ盛りうんこ丸!」
ロゼがイーッと歯を剥き出しにして怒っても、ハリージュは歯牙にもかけていない。ハリージュは思案顔で馬車の背もたれに体を預けたが、何かをひらめいたように体を起こした。
「……そうか」
「?」
「ロゼ。あんたは結局、俺の顔を見慣れていないから、照れているんだろう?」
「は?」
照れているんじゃない。断じて照れてなどいない。だがロゼはそれを口に出して言うことが出来なかった。
生まれた時からこんなに美しい顔を持っていると、感覚がずれてしまうのかもしれない。どれほど見慣れたとしても、きっとハリージュが目の前で微笑む度に口内の肉を噛んで耐えねばならない事実は変わらないだろうに、そんな人間がいるなんて、この男は露程も思っていないのだ。
「なら、俺の顔を近くでずっと見ていたらいい。そうだな、ちょうど屋敷に帰るまで」
「へ?」
「来い」
といって、ポンポンと自分の膝を叩いたハリージュに、ロゼは絶句を返した。
この男の神経がわからなかった。腹がいっぱいで苦しいと言っている人の口を無理矢理開けて、ガチョウの丸焼きを詰め込んでいるぐらいの悪行だった。
「絶対に、無理です」
「何故だ。子供がよくやるだろう。笑うまで我慢する遊戯、あれをしたらどうだ」
「そんな神々の遊びのような遊戯は知りませんし、ハリージュさんとやるなんて、絶対に無理です」
「ロ――」
「絶対に無理です」
「……そう何度も言わないでくれ」
そのロゼから何度も拒絶され、ハリージュは再び背もたれに沈んだ。
「姪にはよくやらされたんだがな」
「姪御さんが?」
「ああ。領地で暮らしている。ハイズラーンは自然豊かな場所で……淑女と言うよりは小さな探検家だ」
「頼もしいですね」
「ああ。もう、五年も会っていないのか……」
五年という響きに、ロゼは思いを馳せた。
五年前といえば、祖母が亡くなった頃だ。あの頃のロゼはあまりにも必死で精一杯だった。
だからこそ、ロゼは恋をした。
長年恋をしていた目の前の男を見て、ロゼは気付けば口を開いていた。
「――五年前は、自分の恋が叶う日が来るなんて思ってもいませんでした」
「……惚れてる奴がいたのか?」
しまった。話題の選び方を間違えた。
ハリージュの問いに、ロゼは口を開いたまま首まで赤くする。
「忘れてください。忘れて欲しいです」
お願いします。両手を合わせて祈祷したが、ハリージュは眉を寄せている。
「……過去にはこだわらない主義だと思っていたが――」
「……へ?」
「いつかどこかでそいつと出会っても、あんたが惚れた奴だとは、絶対に俺には教えてくれるなよ」
連日の疲れが一気に押し寄せたかのような、酷い表情を浮かべてハリージュが言った。
「……」
ロゼはハリージュの勘違いに気付き、口を閉ざす。
えも言えぬ顔をしているロゼを見て、ハリージュは顔をしかめた。
その表情を見て、ハリージュが要らぬ勘を働かせる。
「まさか、俺の知ってる奴なのか」
「……ええ、まぁ」
「……」
「……」
馬車は重苦しい沈黙に包まれた。
ロゼは「絶対に教えるな」という言いつけ通り、沈黙を守り通した。
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