第58話


 食べ終えると、ロゼは食器を洗うために席を立った。夜はアズム邸へ行くため、小まめに洗う必要がある。前のように、気ままに無精も出来ない。


「ふぅ。こんなもんでいいや」

 ハリージュに文句を言われないレベルに綺麗にすると、ロゼはくるりと振り返った。そして驚く。


「……寝てます?」

 随分静かだなとは思っていたのだが、まさか寝ているかもしれないとは思っていなかった。万が一寝ていても起こさぬようにと、抜き足差し足で近寄り、顔を覗き込む。


「……寝てる」

 なんと器用なことに、ハリージュは椅子に座ったままの姿勢で眠っていた。

 腕を組むことでバランスをとっているのか、眠っているというのに不安定さは一つも無い。

 ハリージュは安らかとはほど遠い表情をしていた。眠った時まで厳めしい顔をしているなんて、よほど疲れていたのだろう。


 しゃがんだロゼは膝に肘をつく。

 眠っていても、厳めしくとも、とにもかくにも美しいハリージュの顔を、ロゼはじっと見つめる。


 配置転換されたばかりで慣れない業務の中、ロゼが屋敷に溶け込めるようにと、ハリージュはずっと気を配り続けてくれていた。加えて、ロゼは完全にノータッチの結婚式の手続きにも奔走しているらしい。

 一緒に食事が出来る回数も減っていた。それほどハリージュが、近頃多忙を極めているということである。

 もしかしたら、最初の内に帰ってきてくれていたのも、かなりの無理をさせていたのかも知れない。


 今日はようやく時間が取れたと、菓子を摘まみながら言っていた。と言っても、明日の昼過ぎにはもう城に戻らなければならないとも言っていたため、本当に少ししかゆっくりする時間は無い。


 どうせなら、ベッドに横になって体を休めて欲しいが――一人でハリージュを運ぶのは普通に無理だ。丸太でも無い限り、転がしていくことも無理だろう。そしてひとたび起きてしまえばきっと、再び寝ることは無い。


 ロゼは、ハリージュに触れることを戸惑うのではなく、触れた結果起こしてしまうことを危惧するようになっている自分に驚く。殊の外、ハリージュのそばにいることに馴染んできている。


「……おやすみなさい」


 ロゼはそう呟くと、ハリージュの座っている椅子の脚に背をあてる。

 腕を伸ばして床に散乱していた本を拾い上げると、そっと膝の上で開いた。




***




 雨が湖面を強く叩いている。強い雨は草花を揺らし、地を跳ねる。魔女の庵は、まるで大きな水たまりに浮いているようだった。


 ひんやりとした空気の中、ペラリと紙を捲る乾いた音がやけに響いている。

 膝を立て、その上に本を置いてロゼは読んでいた。

 鼻が紙面に擦れそうなほど近い。それほど顔を近づかなければ、文字が追えないほどに部屋が薄暗くなっていたのだ。


「――ロゼ?」


 名前を呼ばれたような気がする。

 曖昧な音が耳に届いて、ロゼは顔を上げた。


 きょろりと視線を彷徨わせれば、戸惑うような目とぶつかった。薄暗い部屋の中で、一番星のように輝くハリージュが座ったまま、こちらを見ていた。


「俺は寝ていたんだな」

「すみません。これほど暗くなる前には、起こそうと思っていたのですが……」

「いや、寝てしまって悪かった」


 ロゼは窓の外を見て愕然とした。窓の向こうは嵐とも言えるほどの土砂降りの雨だ。読書に集中しすぎていて、全く気付いていなかった。


「……雨が」

「この雨じゃ、舟は使えないな。止むまで待とう」

 雨雲が空を覆っているせいで、随分と暗かった。


 この様子では、もう夜にかなり近い時間だろう。アズム邸のように立派な時計がないため、正確な時刻がわからない。

 今日は迎えの馬車を、ハリージュが断ってくれていたようで助かった。雨の中、待ちぼうけさせてしまうところだった。


 今にも吹き飛んでしまいそうなほど薄い屋根を叩く雨音が、これまで聞こえなかったことが不思議なぐらい大きな音を奏でている。


「海になっちゃいそう……」

「湖は海にはならん」

「知っています」


 ロゼはランプに火を付け、台所を漁った。だが、今は夏だ。常備しておけるような物は買っていなかったし、常備しておく必要も無くなっていた。当然のように、この家には食べ物など有りはしない。


 雨はまだしばらく止まないだろう。こんなことなら、先ほどのパイをもう半分残しておけばよかったと思った。ロゼ自身は腹は減っていないが、いつも普通に食べていた人が、食べられない状況にあることは酷く申し訳なかった。


 そういえば、以前客から受け取ったまま封を開けていないブランデーがあった。ブランデーを探していると、”R”からの手紙が落ちてきた。そこら辺に雑につっこんでいた手紙を手に取ると、またしても雑につっこむ。こうして部屋はいつまでも片付かない。

 なんとかブランデーを探し出し、瓶についていた埃をローブで拭き取る。ラベルにランプを近づけ、ロゼはハリージュに尋ねた。


「いかがですか?」

「もらおう」

 普段使いの味気ないカップにブランデーを注ぎ、テーブルに置く。上等なグラスでも、上質なソファでも無いが、仕方ない。

 庵は狭い上にやはり散らかっているので、他に座れる場所はベッドぐらいなものだからだ。


「すぐ止みそうには無いですね」

「そうだな」


 ロゼは少し心配になってきた。雨漏りや家が吹き飛びそうな不安もあるが、それよりも、雨が止まねば物理的にアズム邸に行くことが出来ない。


 もしこのまま雨が降り続けていたら、ロゼとハリージュは、この狭い家で一晩を明かすことになる。


 以前にも一度この庵で、二人で朝を迎えたことがある。

 あの時のハリージュは紳士的だった。得体の知れない魔女と、高潔な騎士であった。

 だが今はどうだろう。ハリージュはロゼに触れることをためらわないし、ロゼ自身も触れられること自体は――


「ああああああの」


「どうした」

「あまりにも無知だったので、色々と調べてみたんです――結婚について」


 まず、自分の思考を逸らそう。

 ロゼはブランデーの入ったコップをダンッとテーブルに叩き付けるようにして置くと、最近買ったばかりの本を積み上げている場所に行き、三冊ほど抱えて帰ってきた。




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