第五章 水たまりに浮かぶ魔女の庵
第57話
青々となった薬草についた泥を、湖の水で丁寧に落としていく。
汗ばむほどの暑さでも、湖の水はひんやりとして気持ちいい。
湖面に映るのは真っ青な空だ。風の匂いに違和感を抱き、空を見上げる。
今日はもしかしたら雨が降るかもしれない。
洗った薬草を振って水気を飛ばすと、ロゼは小舟を陸に引き上げ、ひっくり返した。
庵に入り黙々と作業を進めていると、チリリンと音が鳴った。客が森の桟橋に来ると鳴る、鐘の音だ。
小窓からそっと覗くと、見慣れた男が立っていた。ここ数日会えていなかったハリージュである。
仕事帰りにそのまま寄ったのだろう。なんと手には、籠まで抱えている。
籠。そう、籠である!
ロゼはいそいそとテーブルを片付けると、テーブルクロスを敷いた。そして小舟を漕いでハリージュを迎えに行く。
「ようこそ、いらっしゃいました」
「……ああ」
桟橋に着くと、ハリージュは何処か呆気にとられたような顔をして、ロゼを見つめている。
どうしたのかと小首を傾げるが、ハリージュの顔はロゼに釘付けられたままだった。
先ほどまで薬草を扱っていたために、顔に汚れでも付いていただろうかと、ローブの裾でゴシゴシと顔を擦ってみる。擦った後のローブを見てみても、特に汚れは付着していない。
ハリージュは小舟に乗り込むと、ロゼの頬を手で包んだ。先ほどロゼが擦った頬とは、反対の方だった。
「汚れていたのは、そちらでしたが」
「いや……ああ、まあ。そうだな」
煮え切らない返事だったが、ロゼは許した。
なんと言ってもハリージュは、手に籠を持っているのだから。
今日はなんの菓子だろうか。アズム邸に世話になり始めてから、甘いものも食べさせてもらってはいるが、やはりこうしてハリージュが手ずから運んでくれるものへの期待は捨てられない。
ロゼはハリージュを見上げた。
ハリージュもロゼを見下ろし、目尻をほんのりと下げている。
何か嬉しいことがあったようだ。ここずっと忙しかったようだが、仕事でいいことでもあったのだろう。ハリージュが喜んでいるのは、ロゼも大変嬉しいことであった。
庵に着くと、ロゼは
菓子をいただきながら、その話でも聞こうとロゼはハリージュに椅子を勧めようとしたが――だがその前に、大事なことをせねばならない。
ロゼはスススとハリージュに近寄ると、できるかぎり顔がにやけないように気を配りながら、両手を差し出した。
「どうした?」
「お土産、ありがとうございます」
だめだ。かなり我慢していたというのに、へらりと口角が上がってしまった。
「……」
対してハリージュは、先ほどまであれほどご機嫌麗しかったというのに、急に急降下したらしい。むすっと口をへの字に曲げて、自分の持っている籠を見る。
「あんたが上機嫌だった理由は、
「じょ、上機嫌だなんて。私は、そんな」
「顔つきが変わらなくても、なんとなくわかる」
そんな馬鹿な。ロゼは絶句した。
無表情は「嘘をつけない」という魔女の秘密を守るために必要なものだ。なのに、これまで以上に人と接するようになったというのに、感情が漏れるようになってしまっては、秘密を守れなくなってしまう。
「そんな……私の感情って、そんなにわかりやすくなってるんですか?」
これまで絶対の自信があった無表情を簡単に見抜かれてしまい、ショックを受けているロゼの頭を、ハリージュが仕方が無いなとばかりにポンポンと叩く。
「心配しなくても、そうなるのは俺の前くらいだ。俺がいる時はフォローできる」
それはそれで、凄まじく恥ずかしいことのように思えるが、ロゼはそっと気付いていない振りをして、しずしずと頭を下げた。
***
ハリージュが持ってきたのは、クッキーのようなパイ生地に、甘く煮付けた林檎がゴロゴロと挟まれたサンドパイだった。
シナモンの香りが、甘酸っぱい林檎に染みこんでいる。パイにかじりつく度に、ジャクジャクとした林檎の食感が歯を楽しませる。
籠を開けた瞬間シナモンの香りがしたので、紅茶からはシナモンを抜いている。普段淹れるものとまた違う味わいだが、これがまたパイの甘さとあっていて、とても美味しい。
いつもの席に座り二人で菓子を食べる。
こんな風に、魔女の庵で穏やかにハリージュと食事をするのが当たり前になろうとは。人生なにがあるのか、わからないものである。
「最近はどんなことをしていた?」
会うのは四日ぶり、ゆっくり会話をするのは、それ以上だろう。ロゼは口に頬張っていた菓子を飲み込み、口を開く。
「この間、ティエンが結婚式用の靴をいくつか持ってきました。馬鹿みたいにヒールが高い靴ばかりだったんですが、ハリージュさんの隣に立つなら少しぐらいかさ増ししなければ釣り合いが取れないからと、何個も何個も履かされて……」
これまで魔女の客としてのティエンの話は出来なかったが、ロゼの知人としての話なら出来る。
「結局、ティエンがOKを出すまでに、二十足は履いたと思います。最後の方は足を動かす気力も無かったので、サフィーナさんが足を取って履かせてくれてたんですが」
ハリージュのこめかみがピクリと動いたが、ロゼは気付かずに話し続けた。
「その時見守ってくれてたのが
アズム邸には下僕が二人存在するが、未だにどちらがどちらか、ロゼは覚えていなかった。
「私があまりに高いヒールに慣れておらず、生まれたての子ヤギのほうがまだマシなぐらいふらふらしすぎるので、彼らが手を貸してくれて――」
「すまない、ロゼ」
ハリージュが上品な仕草でカップを置いた。
今からがいいところだったのに。転かすまでロゼを酷使したティエンが、客だというのにターラさんにガミガミ怒られる爆笑必至シーンが残っている。
是非ともそこまでは話したいと思うロゼに、ハリージュは真顔を向けた。
「言い忘れていた。今日は他の男の話は聞きたくない」
「……へ? では、明日にしますか?」
「明日も、明後日も、聞きたくない」
ではいつ話せというのだ。
ロゼはパイを口に入れた。もぐもぐと咀嚼していくにつれ、頬が林檎のように赤く染まっていく。
――そういえばこの人は、私のことが好きだったんだ。
たまに、いやよく失念してしまう。それに加えロゼは、未だにどういった会話が、男女の仲で御法度なのかもよくわかっていない。
更に、一般的には良くても駄目なことや、一般的には駄目でもハリージュとロゼは気にしないこともあるだろう。
こればかりは、お互いに教え合い、わかり合っていくほか無いような気がしてきている。
ハリージュは、ロゼがアズム邸で平和に暮らすことに関して、非常に大きな関心を寄せている。彼自身も、尽力を惜しまない。それは間違い無い。
それでもなお、自分がいないところでロゼが男と仲良くしている姿を想像するのは、嫌だったのだろう。
「ええと……では、そうですね、森で子鹿が生まれました。見守っていると、母鹿が羊膜に顔を寄せて……」
しどろもどろに話し始めたことだったが、ハリージュは今度は文句一ついわず、楽しそうに聞いてくれた。
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