第26話
――カツン カツン カツン
足音がする。
獲物を追い込むことを楽しむような、ゆっくりとした足取りだ。
逃げ場を無くした獲物は、ただ震えることしか出来ない。
ロゼの吐く浅い息が、小さな地下室を満たす。
ひんやりとした地下室の空気が、ロゼの真っ白い肌を撫でる。カビ臭い匂いが、ロゼの鼻から入り、脳に充満した。
――カツン
頭上で、足音が止まった。
何かを探すような、そこら辺にあるものを適当になぎ倒しているような、乱暴な物音が頭の芯まで響く。
反射的に、体が跳ねそうになる。叫びそうになる口を、強く手で押す。
気持ちの悪さと、恐怖に咽せ返る地下室から、ロゼは逃れられない。
――ガタッ!! ガラッガシャン!!
道具箱をひっくり返したような、特別大きな音がした。ロゼは反射的に体を震わせた。吐息だけの悲鳴がこぼれ落ちる。
口を押さえている指が、頬に食い込む。
目を極限まで開いたまま、ロゼは固まっていた。
ロゼの隠れている地下への扉がわからずに、周囲の物に当たり散らしているのか。
それとも、ロゼを怖がらせるために、わざと物を蹴り、威嚇しているのかもしれない。
考えれば考えるほど恐かった。
震えが収まらない。
歯がガチガチと、耳障りな音を立てる。ここにいると教えたくなくて、音を立てないように、必死に震えを止めようと心を落ち着かせるが、震えは止まらない。
ロゼの見開いたままの乾いた目に、光が差す。
天板に、細い光が走った。
床板と地下室の扉の隙間から、ランプの光が差し込んでいる。
ラグが剥がされたのだ。
息が吸えない。
空気が薄くて、目眩がする。
天井が開く。
向けられたランプの光が眩しくて、目を閉じたいのに、それすら体が拒むほどに怯えていた。
「――ロゼ」
見開いたままの目から、反射的に涙が零れる。
何故ここに。どうして、今。
口から、音が漏れた。なんと言ったのか、自分でもわからない。
「無事か」
優しい声が、労りに満ちた表情が、ロゼに向けられた。
扉が完全に外され、ランプが脇に置かれた。
浅い呼吸が、荒くなる。一気に肺に渡った空気が、痛いほどに暴れているに違いない。
空気を一気に吸い込んだせいで、体が追い付かない。速い呼吸が繰り返しロゼを襲った。苦しくて、肩が激しく上下する。
恐かった、恐かった。
恐かった恐かった恐かった。
「遅れた。すまない」
伸びてきた手に反射的にしがみついた。腕は何故か氷のように冷たく、びっしょりと濡れていた。
慌てて身を引こうとしたハリージュは、けれど観念したようにロゼを抱きしめる。
荒く揺れるロゼの体を宥めるように、何度も背を撫でる。
密着しているせいで、ロゼの服に水が染みこみ、徐々に冷たくなっていく。水が広がるにつれ、ハリージュの気持ちが染み渡ってくるようだった。
「怪我はしていないか?」
ロゼに触れるハリージュの腕も、か細く震えているように思えた。
呼吸が落ち着いてきたロゼは、必死に唇を動かして「はい」と返事をした。
ハリージュの全身から力が抜ける。大きな吐息が吐き出される。
「よかった」
そう言ったハリージュは、もう一度ロゼをきつく抱きしめる。
安心させるかのようにとんとん、と背を叩いたハリージュは、ロゼを離した。
しかし、ロゼはハリージュの服を掴んだままだった。
そのことに気付いたロゼは、慌てて手を離そうとする。だが、恐怖と緊張で握りしめていた手は、固まってしまっていて上手く動かない。
震えるロゼの手を、大きな手の平が包む。
何度か優しく撫でられていると、ゆっくりとだが、解くことができた。
「すみま、せん」
「謝らなくていい」
安心させるように笑うと、ハリージュが立ち上がった。そして、足を思いっきり振り上げる。
何かがハリージュの裸足の足に当たり、宙に浮く。
そのまま、ドシンッと床に転がった。
「これはしまった。移動しただけなのに、足に当たってしまった」
随分と棒読みだ。ロゼはぽかんとしてハリージュを見上げる。
ハリージュが
ハリージュと同じ背丈ほどの、灰色の髪をした、男。
以前、ハリージュが間違えられた窃盗犯に違いなかった。
男は、白目を剥いて気絶している。
ロゼが地下室で聞いた大きな音は、ハリージュが窃盗犯を退治してくれた音だったのか。男の横には何故か、畑にあるはずのクワが転がっていた。
男は両腕と胴を何かで縛られていた。貴婦人のコルセットくらい、きつく絞られているようだ。
蟻一匹這い出る隙間もないほどしっかりと縛った男を、ハリージュは掴んだ。
「傍にいてやりたいが、こいつを連れて行ってくる。すぐにサフィーナを寄越す。それまでは絶対に、誰が来ても扉を開けるな」
「さ、さっきも、私が開けたわけじゃ」
そんな馬鹿な真似はしなかったことを伝えたくて、口答えをする。
ハリージュは怒るどころか、どこか安心したように薄く笑った。
「そうか、すまない」
ランプの光がハリージュの頬に、やわらかい光をあてる。息を呑むほど、やさしい笑顔だった。
「じゃあ、暖かくしていろ」
「そうだ、お客様、どうして濡れて……」
最後まで言う前に真相に気付き、ロゼはぽかんと口を開けた。
「まさか、泳いできたのですか……冬の、湖を」
凍える夜の湖は、氷が張ることもあるほどだ。
骨の髄まで凍るほどの残酷な冷たさは、まるで寒さに噛まれているかのように痛む。誤って湖に落ちてしまった獣たちは、命を落とすこともある。
「庵は真っ暗なのに、硝子が割れる音がした。舟は不審な動きをしているし、何かあったかと思うのは当然だ」
今だって尋常じゃ無い寒さのはずだ。ロゼは慌ててハリージュをベッドの方に押しやると、衝立をより大きく広げた。
「死んでしまうかもしれないんですよ! 服を脱いでいてください!」
「いや、ロ――」
「脱いでください」
有無を言わせない口調でロゼはもう一度言った。
観念したのか、衝立の向こうから衣擦れの音がする。
手当たり次第、布や、片付け損ねていた夏用の布団をベッド側に投げ入れた。あまりにも動転していたため、何度か窃盗犯を踏んづけたかもしれない。
「布団に包まっててください。濡れた服は衝立にかけてください」
薪を足していてよかった。パチパチと爆ぜる炎は大きく、室内を十分に暖めてくれている。
「ちょっと、あなたは邪魔ですね」
窃盗犯を蹴飛ばし、床を転がせて移動させる。ベッド側のスペースを広げたくて、衝立を引っ張った。これで、ハリージュも布団を羽織ったまま、暖炉で暖まれる。
「ロゼ、犯人はこちらに――」
「大丈夫です。眠り薬を飲ませて、しびれ薬を振っておきますから」
「そ、そうか……」
戸棚から取り出し、必要な手順を済ませた薬を、意識の無い窃盗犯に盛る。今はこうするほか無い。窃盗犯はぴくりとも動かないで、お利口に床に転がっている。
クローゼットを広げる。
ハリージュが着られそうな服などあるはずがない。濡れたハリージュの服を絞り、体を拭いた夏用の布団に挟んで水気を絞る。中にあたたかい空気が入りやすいように空洞を作れば、それほど時間をかけずとも、暖炉の熱気で乾きそうだった。
暖炉で部屋がぬくもってきたのか、多少濡れていたロゼの服も乾いていた。
「そうだ! 上着、上着を着ていない」
「服は森で脱いできた」
「取ってきます! ここで暖まっていてください!」
「ロゼ!」
ロゼは慌てて家から飛び出した。桟橋に行っても、やはり小舟はない。裏に回ったところで、寂しそうにぷかぷかと浮いていた。
移動していなくてよかったと思いながら、落ちていたオールで舟をたぐり寄せる。
小舟に乗って森へ行くと、服や剣はすぐに見つかった。ロゼの憧れた、騎士のマントも。
涙がせり上がりそうだった。
震える指で、服を摘まむ。
胸に抱えると、なぜか吐息が漏れた。
急がなければと意識を切り替えると、大事に抱えたまま庵に戻る。すると、ハリージュが玄関で、服を着込んで立っていた。
「服……! 乾きましたか?」
「ああ。十分だ。もう行く」
犯人をロゼの家に置いておくことが気になるのだろう。
ロゼが大事に抱えていた服を受け取ると、ハリージュが口角を上げる。
「助かった、ありがとう」
助けられたのは、ハリージュでは無い。
ロゼだ。目頭がぐっと熱くなる。
「なんでっ……」
何故ハリージュは、冬の湖を泳いでまで助けに来たのか。
だが、それを聞くのは、卑怯だと思った。ハリージュが我が身を省みず湖を泳いでくれたからこそ、ロゼは助かったのだ。
「……なんで、ここいたんですか」
だからロゼは、違うことを聞いた。
ハリージュは、ビッラウラを国境まで送り届ける任務に就いていたため、王都を離れていた。その仕事着のまま、こんな辺鄙な場所に用事なんてあるはずがない。こんな、夜中に。
「窃盗犯を、追っていたんですか?」
首を横に振りながら、ハリージュは剣を携える。
その表情は苦虫を噛みつぶしたようだった。居心地が悪そうに言う。
「……何をしているかと、思ったんだ」
「……?」
「灯りがついていれば、少し寄ろうかと。不便は無かったか、体調を崩してはいないか……と」
ロゼは呆気にとられた。
そんなもの、屋敷に戻り、サフィーナの報告を聞けばわかるようなことではないか。
任務帰りにわざわざ、森の奥深くまでやって来て確認せねばならないとは、到底思えなかった。
「そんな、ことのために?」
ぽかんとしているロゼを見て、ハリージュは心底機嫌悪そうに顔を歪めた。
「いいんだ。来て、よかったんだから。じゃあ、行くからな」
拗ねたようにそう言って、ハリージュが窃盗犯を担ぐ。
「あ、お客様っ――」
「なんだ」
振り返った顔は、ぶすっとしていた。
ロゼは両手を握りしめて、深く頭を下げた。
「助けて頂き、ありがとうございます。心から、感謝しております」
ロゼの感謝を無言で受け取ったハリージュは、ロゼの頭をぐしゃぐしゃと掻き回して、夜の闇へと消えていった。
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