第六章 贅沢な夜と魔女
第25話
ハリージュのいない期間は、ロゼにとって過ごしやすいとは言い難かった。
冬は特に、製薬や畑の仕事がいつもより少なくなる。
動物や草木が眠っている冬の間にやることもあるのに、そのどれもやる気になれない。
忙しくないのも相まって、考え事をする時間が増えてしまう。
ふと灰色の髪の男を思い出しては、自分の頭を壁に打ち付けて邪念を取り払い続けていた。
更に、二日に一度、サフィーナが食事を届けに来ることで、否が応でも彼の主人を思い出す。
馬鹿げたことに、鐘が鳴る度に「今日はもしかしたら本人かもしれない」と、期待する心が抑えられない。
こんなに恋が自分を弱くするとは、思ってもいなかった。
ハリージュが帰ってきて、サフィーナもろとも礼と別れを告げれば、この奇妙な時間もすぐに忘れられるはず。
それだけが、一縷の望みだ。
もう、何も心乱されず、穏やかに湖に朽ちたい。
どんよりとしてきた事に気付いて、ロゼは慌てて外に出た。冬は太陽が出ている時間が短いため、心も暗くなりがちだ。
かじかむ指先に息を吐きかけながら、庭の落ち葉や枝をかき集め、芋を焼く。
細い煙が天に昇っていくのをぼうと見つめていた。
どれほどそうしていたか。気付いたら、森の方が騒がしくなっていた。
どうしたのかと、どうやら村の子供達が森で遊んでいるようだ。
目を凝らしてみる。ドキリとした。
森で遊んでいたのは、以前ロゼに泥玉を投げ付けた子供達だったからだ。
豪胆な子達だ。魔女の報復が恐くないらしい。
しかし、桟橋に必要以上に近づかないところを見ると、怖がっていないとは言い切れないかもしれない。
ロゼはつい悪戯心で、落ち葉の中から芋を取り出した。
棒に刺した芋を、高く掲げる。
子供達は動きを止めてこちらを見た。
わらわらと集まってはいるが、やはり一定の場所からは近づいてこない。
芋は欲しいが、魔女に直接もらいに来るのは、恐いようだ。
ロゼが立ち上がる。子供達はまるで奇妙な虫でも見たかのようにわっと逃げ、森に隠れた。
桟橋まで行き、リールを回し、舟をたぐり寄せる。舟に焼けた芋を載せると、また森に戻してやった。
しばらく見ていたが、子供達は近づいてこない。
いい加減、家の事もせねばならないしと、ロゼは庵に戻った。
夕方、ふと芋のことを思い出し舟を見に行くと、芋は綺麗さっぱり消えていた。
***
――チリン
待ち望んでる鐘が鳴ったのは、ハリージュが旅立って、ひと月がたった夜のことだった。
サフィーナは昨日訪れた。
二日に一度の頻度だから、今日はサフィーナが来る日ではない。それに、サフィーナは夜に訪れることはない。
胸の高鳴りが抑えきれない。
キルトを剥ぎ、ベッドから抜け出す。履き物さえ履く余裕が無くて、足の裏が冷たい。
冬の森の夜は、全ての生きとし生けるものが寝静まっているかのような静寂が訪れる。
冬化粧された森の上には夜空が広がり、冴えた星が散らばっている。
明るい星を映した湖は、まるで宝石箱をひっくり返したかのように光り輝いていた。
贅沢に空を彩る星も、明け方に朝陽でピンク色に染まる湖も、ロゼは幼い頃から好きだった。
カーテンをそっと指先でずらす。
桟橋に、誰かが立っている。
火をつけていないし、暗い色の防寒具を着ているのだろう。ぼんやりと星明かりで見る限りでは、髪の色までは確認できない。
だが、ロゼには見覚えがあった。
彼に違いないと思った。
いつもこの窓から覗いていたシルエットに、とてもよく似ていたからだ。
ロゼは胸を押さえた。痛いほどに切ない。
こんなにも待ち望んでいた自分に呆れる暇もない。
早く、顔が見たくて仕方が無かった。
眠っていたせいでボサボサの髪をときながら、熾火になっていた暖炉に紙や薪を足す。そして、はたと止まった。
何故彼は、火もつけていないのだろうか。
ハリージュはいつも、ランタンを持ってきていた。
いかにも貴族がお忍び用にと選びそうな、太い蝋燭を灯しながら。
もう一度窓を見ると、既に小舟に乗り込んでいるようだった。小舟の
忘れただけだろうか。
夜道を照らすための、ランタンを?
自分で考えておいて笑えるほどに、荒唐無稽だ。
嫌な予感がした。
万が一、ロゼを起こさないために灯りを付けなかった――なんていう理由ならば、ハリージュは桟橋に立たなかったはずだ。
彼は知っている。桟橋に立つと、魔女の家で鐘が鳴ることを。
ロゼはもう一度窓を見た。
舟は見えなかった。
夜の闇に紛れているというよりも、進路を変えているらしい。小島の桟橋に舟を着けるのでは無く、どこかから隠れて近づこうとしているのだ。
予感が確信に変わる。
ロゼは棚に移動して、ガチャガチャと小瓶を漁る。
――パリン!
緊張と焦りから手が震え、いくつか小瓶を落としてしまった。
夜の闇に、ガラスが割れる音が響く。
背筋が凍る。
外からやって来ている人はきっと、魔女が起きていることに、気付いただろう。
不意打ちを狙えなければ、ロゼに勝機はほぼない。
魔女の秘薬は万能とはほど遠く、望みを叶えるためには手順がいる。その手順を踏む時間も、踏ませてくれる親切も、期待は出来ないに違いない。
撃退することを諦めて、ロゼはベッドの下にあるラグを捲った。
床の板を外し、祈祷部屋に身を潜り込ませる。
できる限り手を伸ばし、不自然にならないようにラグを整える。
急がなければと思えば思うほど、指がうまく動かない。
家の外で、カタンと音がする。
ラグを綺麗にすることを諦めたロゼは、天板を閉めた。
ベッド一台分もない小さな地下室は、真っ暗だ。
息を殺し、身を縮こまらせ、両手できつく身を抱く。
心臓がどくどくと鳴っている音が、耳元でするようだった。
頭上からカタカタと音がする。
何の音かと思えば、ロゼの震えが天板に伝わっていたのだ。自分がそれほど恐怖を感じていたのだと知る。
これまでにも、こんなことが無かったわけじゃ無い。
なのに、今まで感じたことが無いほどの恐怖を感じていた。
たぶんそれは、ロゼが、生きたいと思ってしまっているからだ。
また彼と美味しい林檎を食べたいと、願ってしまっているからだ。
ロゼはきつく目を閉じて、ぐっと頭を下げた。
玄関扉がしばらくカチャカチャと言っていたかと思うと、ゆっくりと扉を開く音がした。
外から鍵を開けられた。やはり、不審者で間違い無かったようだ。
堂々と玄関から、不審者の侵入を許してしまった。
歴代の魔女が育ち、守り、大切にしてきた魔女の家――ロゼの家に。
恐くて、悲しくて、歯がゆかった。
不審者が歩く度に、床の板がぎぃと音が鳴る。
――カツン ギィ カツン ギィ ギィ
不審者が近づいてくる音がする。魔女の庵なんかに、一体何の用があるというのか、ロゼには全くわからなかった。
しばらく、不審者は家中を歩き始めた。
灯りを付けていないせいだろう。
時々、何かを蹴ったり、落としたりする音がする。そのたびに、不審者が低い声で悪態をつく。勿論、聞き覚えの無い声だった。その全ての声が、怒りと共に地下室に届く。
「あーあ。魔女もいねえし。若い女だって聞いたから、楽しめると思ったのによ」
何を楽しむ気だったのかは知らないが、ロゼにとって幸運なことではないだろう。
「しけてんな。こんだけしか無えのかよ。大々的に薬を売りさばいてるって言うから、もっとあるかと思ったのに」
苛立たしげな声と共に、チャリと金属音が鳴る。どうやら、薬の売り上げを狙ってきたらしい。
ハリージュから受け取った惚れ薬二つ分の代金は、ちょうどここ――ロゼの尻の下にある。大金だからと、受け取った袋のまま、地下に隠していたのだ。
ぶるりと体が震えた。
その身じろぎで、尻の下に敷いていた硬貨の山がずれたらしい。
チャリン、と金属音が響く。
「……なぁんだ」
ロゼは口を両手で押さえた。
強く抑えていなければ、悲鳴が漏れそうだった。
男の声が近づいてきた。ギィギィと床板が軋む。
「そこにいたのか」
男が下卑た笑みを浮かべていることが、声だけでわかった。
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