第54話
「……どうした?」
後ろからパタパタと付いてきたロゼに気づいたハリージュが、怪訝な顔をして振り返った。
「何か言い忘れたことでもあったか?」
「ええ。せっかくなので、お見送りを」
「……ああ」
なるほど。と小さくハリージュが頷いた。
今までハリージュを、こんな風に見送ったことは無かった。
なんとなく見送ろうと足を向けてしまったのは、ロゼも色々と浮き足立っているのかもしれない。
「それと、ドレスに関して……何か、希望はありますか?」
「無い。好きにするといい」
「では、絶対にしてはいけないことはありますか?」
「それも気にする必要はない。よほどまずいことがあれば、ティエンが口を挟むだろう。わざわざあんたの弱点を作るような真似はしないはずだ」
以前、『他の男からの贈り物を受け取るな』と嫉妬されたことをロゼは思い出していた。
あの時の誤解も解けているので、大丈夫だとは思うのだが……ロゼは一応確認した。
「本当に、ティエンと決めていいんですか?」
「いい。意匠の流行りも、礼節も、俺より把握しているだろう」
「そうでなくって、ええと……ティエンは男なので?」
どう伝えても自意識過剰に思われそうだったが、一番恥ずかしい聞き方をしてしまった気がする。
「――あんたを森から連れ出してたうえ、家族からも引き剥がすようなことはしない」
厳密に言わずとも、ティエンは真の家族ではないのだが、ハリージュがそれで納得しているのなら、ロゼが口を挟むようなことではない。
「わかりました。一人では決めかねてしまうので、助かります」
「元々、騎士になった時点で社交的な付き合いはやめているから、招待するのは身内ばかりだ。重苦しく考えなくていい」
「はい。では、いってらっしゃいませ」
ロゼが手を振ると、ハリージュはピタリと体の動きを止めた。
そして、玄関を出ようとしていた体を反転させると、ロゼの腰を抱き寄せた。
「……こういう時、婚約者には、別れのキスをする義務があると思わないか?」
口を真一文字に引き結ぶ。今朝のことを思い出し、顔に徐々に熱が上がっていっている。
「し、式まで待つと、式まで待つと言ってました」
手を振る仕草の何が琴線に触れたのか皆目見当も付かないが、急に色気スイッチの入ったハリージュに、ロゼは上ずった声で答えた。
先ほど押し倒された時、自分がハリージュにほとほと弱いことを、ロゼは重々理解した。全くと言っていいほど、抵抗できなかった。
しかし、流されるのは自分のためにならない。頑ななロゼに、ハリージュは苦虫を口いっぱいに詰められたような顔をして唸った。
「……覚えていろよ」
「それは、裏稼業のものがお縄に付く時に言う台詞であって、愛しい婚約者に言う台詞とは、到底思えません」
しかしハリージュは、もう強引に口付けようとはしなかった。ロゼの腕を取ると、手の平と手の平をあわせるように、ゆっくりと指を開かせる。
指の一本ずつまで絡められるように手を握られ、ロゼは唇をわなわなと震わせる。
「な、なにを……」
「口にキスしなければいいんだろう?」
フードを取られ、頭頂部に唇が落ちてくる。
その間も、手の平を彼の親指が弄んでいる。ぞわぞわとした感触に耐えきれず、ロゼは名を呼んだ。
「ハリージュさん!」
「なんだ」
「手が……」
「繋いでいるだけだろう。普通だ」
そうなのだろうか。こんな触り方を世間一般的に普通と言うのか。ロゼが心の中でぐるぐるしていると、中々外に出てこない主人を心配したのか、先に外に出ていたサフィーナが様子を見に戻ってきた。
ロゼを抱きしめているハリージュを見ると、歴戦の執事は顔色を変えることなく、すっと玄関扉の脇に退く。この執事、よく思うが空気を読みすぎである。
「は、ハリージュさん!」
「だから、まだだ」
「違っ、今、サフィーナさんが、サフィーナさんが!」
「気のせいだろう」
気のせいなもんか! ロゼは今この目で見たのだ。しかと見たのだ。
バシバシ背中を叩き始めたロゼに観念したように、ハリージュは拘束を解いた。
「なら、キスの代わりに言葉をもらおう。愛しい婚約者を、なんと言って見送る?」
忘れていた。この男、ナメクジうんこ丸だったのだ。
ロゼはギリギリと音が鳴るほど歯を食いしばって、ハリージュを睨みあげた。しかしハリージュは、ロゼの恐ろしい顔なんて、全く恐ろしくないという風だ。
「わからないのか? なら、教えてやらないこともない」
悔しさに負けたロゼは口を開いた。
「お」
「お?」
「お早いお帰りを、お待ちしております」
ロゼはフードを顎まで引っ張りながら、なんとかそう告げる。
次の瞬間、また大きな腕に捕まっていた。
どうやら、正解は出来ていたようだ。顔を伏せつつ、ロゼはハリージュの香りを吸い込む。
今日は夜まで起きて、ハリージュが帰ってくるのを待っていよう。なんとなくそう思い、顔をぐりぐりとハリージュの胸に押しつけた。
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