第55話
仕事に向かったハリージュの乗った馬が見えなくなると、ロゼはティエンの待つサロンに戻った。
「おかえり。君の新婚生活が予想以上に楽しそうで、僕は心底安心したよ」
「まだ新婚じゃない」
「ははは」
ティエンはまだ何か言いたそうだったが、ロゼは鼻の上に皺を寄せて、それを防いだ。サフィーナの代わりに、放たれたドアのそばにモナが立っている。
「そろそろ疲れただろう? 少し休憩にしよう」
「ティエン……今、貴方最高に素敵よ」
普段使わない方向の頭を使ったせいでへとへとだったロゼには、ティエンがまるで天使のように見えた。
休憩という単語に反応したモナが、すぐにお茶の用意をしてくれる。
事前に渡していたのか、ティエンが持ってきたという茶菓子も出された。林檎の実が入ったマフィンだった。
囓るとほろりと崩れるのかと思いきや、もちっとした食感が歯に伝わる。噛めば噛むほどもちもちで、ロゼはそのもっちりさに魅了されていた。手でひっぱると、繊維に沿ってふわりと割ける。
割けた断面をしげしげと見つめ、ごくりと生唾を飲み込む。
この断面、もしかしなくとも、誘っているのでは無いか?
手にした小さな欠片から食いつくか、本体から食いつくか、ロゼはしばし悩んだ。あまりにも贅沢な時間だったようにも思う。
本体に取り残された甘く味付けられた黄金色の林檎が、マフィンの隙間からこちらを覗いている。シャクシャクとした触感を、目から存分に伝えてくれている。
ロゼは迷った末に、本体にかじりついた。
先ほどとは違い、歯ごたえのある果実の食感もある。もっちもちとシャックシャクがロゼの口内を襲う。鼻を抜けるバターの香りと、林檎の酸味にロゼは夢見心地だった。
「君ってば、いつからそんなに甘いものが好きになったんだい?」
ロゼの様子をしばらく興味深げに見ていたティエンは、驚いたように言った。ロゼは頬をリスのように膨らませながら考える。
甘いものというか、食べることが好きになった経緯は、やはりハリージュにあると思う。
彼が来るのは嬉しい。甘いものを食べられるのも嬉しい。
この二つが相乗効果となり、ロゼに過剰な喜びを与えるのかもしれない。
「君がこんなに喜ぶなら、また何か見繕ってこよう」
これまでの魔女の人生は、新鮮な喜びとは無縁だった。
朝起きて畑の世話をし、森に入り薬草や土を採り、魔女の秘薬を作り――その日必要なことを、その日生きるためにやっていた。
魔女の人生とはそう言うもので、ロゼはそう言う生き方しか知らなかった。ロゼにとっての”善き魔女”の在り方とは、そういうものだった。
そんなロゼに変化を与えたハリージュを、ティエンはとても好ましく思っているようだ。元々目の細い男だが、更に目が細くなっている。
マフィンをペロリと食べ終えたロゼは、指についたカスまで丁寧に頂く。
「こんなに食べるとは予想外だったけれど――それだけ食べれりゃ、安心だね。食べなきゃ無理矢理にでも、口に詰め込むところだったよ」
食い意地の張ったロゼを見て、ティエンがほっとしたように言う。
そのいい方が先ほどまでの話題とはずれているように感じ、ロゼは尋ねた。
「どういうこと?」
「最近、僕の顧客が何人か倒れていてねえ」
「病? 毒?」
「そういう大げさなものじゃないようだよ。皆ワインを飲んでいる時や、寛いでる時に急にこう……ぐらっと。おかしな話で、医者が駆けつける時にはもう症状も落ち着いてるらしくてね」
「へえ」
ティエンの顧客といえば、この国の命運を分かつような立場の御仁達だ。
話を聞いていたロゼの隣に、手が伸びる。モナが食べ終えた皿を片付けようとしてくれているようだ。
モナの邪魔にならないように、ロゼが体をずらす。モナは真っ青な顔で目礼すると、集めた食器を片すためにそそくさと部屋を出て行く。
「彼女は随分、君に怯えているようだね」
「魔女に怯えない人のほうが珍しいだけ――でも、いつもより怯えてたかも。魔女と商人が、国を滅ぼす算段でもしているように見えたんじゃない?」
肩をすくめて言うと、ロゼはもう一つマフィンを手に取った。
「このところ、急に暑くなったから、暑さが人を駄目にしているのかもしれないねえ」
「そんな、林檎じゃないんだから」
「南の国では、日の当たるところに長時間いてはいけないことは、常識なようだよ」
初めて聞く話に、ロゼは目を輝かせる。家を出ないロゼにとって、新しい知識はこうしてティエンが運んでくるものだった。長い行商から帰ってきた彼は、いつも多くの本を持ち帰ってくれた。
「その症状って――」
「さて」
ティエンはにこりと微笑んだ。狐のような顔に、ロゼはギクッと体を震わせる。
「それじゃあ、後半戦を始めよう――この話の続きは、ドレスが決まってからだね」
ロゼは震えながら「へい」と答えた。
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