第七章 魔女と騎士と惚れ薬

第28話


 駆けつけてくれたサフィーナは目尻の皺を深くして、涙を浮かべ、ロゼの無事を喜んでくれた。


 一人で大丈夫だと言い張っていたのに、一人では何も出来なかった自分に悶々としていたロゼは、サフィーナの涙を見て、ただ自分が無事だったことに感謝することを許した。

 サフィーナに手伝って貰い、窃盗犯が壊したものを片付けていく。





 掃除も一段落つくと、柔らかい日が差すテーブルで、二人は紅茶を飲んだ。

 穏やかな時間が流れている中、来客を告げる鐘が鳴る。


「まさか、来たんじゃ……」


 さっと顔を青ざめたロゼは、再びの窃盗犯を心配したのでは無い。

 ゆっくり休んでくれと心から願っていた男を案じたのだ。


 窓から覗くと、想像した通りの男が立っていた。

 しかし、端から見てもわかるほどに、様子がおかしい。


「……旦那様? それに、うちの下僕も……。失礼、魔女殿。迎えに行って参ります」

「は、はい」

 ロゼの隣から窓を覗いたサフィーナも、顔色を変えて外に飛び出した。


 桟橋にいたハリージュは、まるで病人のように肩を担がれていた。同行しているのは使用人だ。よほど慌てていたのか、 外出しているというのに、使用人はお仕着せのままだ。


 サフィーナが舟を漕いでハリージュを迎えに行っている間に、ロゼも棚の小瓶を漁った。どのような症状が出ているのか、何故ロゼを頼ってきたのか、想像しながら慎重に小瓶を選んでいく。


「どういうことです。一体、何があったのですか!」

「申し訳ございません! 眠気覚ましの薬と間違い、違うものを渡してしまって……!」

「そのことは許している! もういい、触るな! 帰っていろ!」


 外がにわかに騒がしくなってきた。

 内容まではロゼには聞き取れなかったが、ハリージュの切迫した怒鳴り声に驚く。彼のそんな声を聞いたのは、初めてだったからだ。


 慌ただしくロゼは玄関を開けた。ハリージュを支えていたサフィーナごと、倒れ込むようにして室内に入ってくる。


「どうしたんですか。何があって……薬師を!」


 しゃがみ込み、ロゼはハリージュを観察した。冷たい水に入ったから風邪を引いたのかもしれない。ハリージュの顔は、どす黒いほどに赤くなっていた。


 肘に力を入れたハリージュが、立ち上がろうとするが、それ以上持ち上げることが出来ないようだ。ハリージュはきつく歯を食いしばる。


「必要ない。サフィーナ、帰っていろ」

「そんな、このような状態の旦那様を置いて――!」

「いいから! 解毒は、魔女殿ができる!」


 えっ、とロゼとサフィーナは顔を見合わせた。


「……私が、ですか?」


 となれば、魔女の秘薬に関連することだろう。


 ロゼは頭を切り替えた。


「毒を盛られたのですね? 見た目でも味でも匂いでも、何でもかまいません。毒薬の特徴を覚えていますか?」


 ハリージュが首を振ると、額から流れ出ていた尋常で無い汗が飛び散る。


「守秘義務に関わる。サフィーナ、頼むから彼を連れて帰ってくれ」


 主人が一歩も引かない理由が仕事に関することだとわかると、サフィーナも引き下がるしかなかった。ハリージュが決して意志を曲げないと、知っているからだ。

 この場は一秒でも早く、魔女に任せるしかないと思ったのか、サフィーナは素早く立ち上がる。


「……わかりました。魔女殿、よろしくお願い致します」


「はい。命をかけて」


 サフィーナの目を見て、ロゼはしっかりと頷いた。たとえどんな毒かわからなくても、ロゼがハリージュを見捨てることは、絶対に無い。


 サフィーナが出て行き、外で待っていた使用人と帰って行くと、ハリージュは床に崩れ落ちた。

 よほど苦しいのだろう。口で浅い呼吸を繰り返している。


「触りますよ」

 ロゼはハリージュの肌に触れた。信じられないほどに熱い。


 引こうとしたロゼの手を、ハリージュが掴んだ。

 あまりにも早かったため、反応も出来ないほどだった。

 大きな手の平はじっとりと汗で濡れている。握りつぶされそうなほど力が入っているのに、全く痛くない。

 ロゼを握りつぶさないように、これほど極限の中、気をつけているのだとわかる。


「気が、狂いそうだ……解毒剤は、無いのか」


 息も絶え絶えの掠れた声は、ぞくりと背筋が震えるほどの色気を纏っていた。

 ハリージュの顎から、汗が滴る。


「何の薬を飲んだのか、わかっているんですね?」


「ああ」


 ゴクリと、生唾を飲んだ音がする。


「あんたお手製の、惚れ薬だ」


 たっぷり五秒は固まった。


「――はい?」

「以前買った物を、間違えて飲んでしまった」


 間違えて、って……ロゼは言葉を失った。間違えて飲むには向いていない薬だ。


「解毒剤は存在しますが、作る材料が足りません。飲んだ量は?」


「わからない。いつもの味と違うと思って、すぐに捨てたが―― 一口は確実に飲んだ」

「万が一全量でも、半日ほど誰かに恋をしているだけで、落ち着いていくと思いますが……」

「このままで半日待てと? 絶対に無理だ! それに、誰にも惚れていない。体液を摂取していない」


 魔法が不完全だから、これほどに苦しんでいるのか。行き場を失った魔法が、ハリージュの中で暴れているに違いない。


 ハリージュが立ち上がろうとして、体勢を崩した。


「危ない!」


 ハリージュが倒れた拍子に、テーブルにぶつかってしまった。テーブルの上に置いてあったカップが落ちる。


 ――パリンッ

 大きな音を立てて、陶器のカップが割れた。


「大丈夫ですか?!」

 ロゼは顔を青くして、ハリージュが怪我をしていないかくまなく観察した。


 多少紅茶で濡れてしまったが、拭けばどうにかなるくらいしか、かかっていないようだ。どこにも怪我を負っていないようで、安心する。


「よかった。お客様に……」


「ハリージュだ」


 立ち上がったハリージュが、すっとロゼの頬を手で包んだ。


「……へ?」


 ロゼを見つめる瞳は潤み、堪えきれない熱を孕んでいる。

 真っ直ぐに見返す勇気など無いのに、視線を逸らすことは許されなかった。


「……おきゃ」


「ハリージュと、そう呼ぶんだ」


 彼の手の平が触れている頬が、じんじんと痺れる。


 呆けているロゼを見つめていたハリージュが、そっと首を傾けた。


 瞬き一つ、自分の意思で出来なくなっていた。

 見開いた目で、美しい顔が近づいてくるのを見る。


 ぽかんと開いた柔らかいロゼの唇が、塞がれた。


 それはハリージュの、もう片方の手だった。


「……」


 なんだか、このパターンに覚えがある気がする。

 ロゼが沈黙していると、最後の自制心でもあった硬い手が、そっと外された。


「……まずいことになった」

「……それは、あの、わかりました」


 低い声を出したハリージュは、ロゼの肩に顔を埋めて唸った。


 先ほど零れた紅茶は、ロゼが飲んでいたものだった。床に落ちる時に、ハリージュの目や口に入ってしまったのだろう。


 現状を理解したロゼは、心で悲鳴をあげる。


 なんてことになったのだ。冷や汗が止まらない。


「くそっ……あんたは、こんなものを耐えてたっていうのか」


 騒ぎ立てる胸を鎮めようとしているのか、胸を押さえながら、ハリージュが苦しそうに唸った。


 彼が話す度に、ロゼの肩が揺れる。熱い吐息が、服を通してロゼの肌に吹きかかる。


 かなりの力を、ハリージュは全身に込めているようだった。なのに、ロゼに触れる手は、相変わらずに優しい。


 食いしばった歯の隙間から、呻き声が聞こえる。ロゼは突っ立ったまま、何も出来ない。小さな刺激を与えることも恐かった。


「すまない、少しだけ」

「す、少しだけ」

「そう、少しだけ」


 少しだけ。

 もう一度意味も無くロゼは繰り返した。


 ハリージュが、ロゼの頭を抱き寄せる。フードはいつの間にか脱がされていた。

 ロゼの耳を、ハリージュの手が掠める。


 髪に埋もれた指が、地肌に触れる。地肌の感触を楽しむかのように、指の腹で撫でられる。

 ハリージュの小指の先が、うなじに微かに触れる。瞬時に、感じたことのある感覚がロゼを襲った。以前、惚れ薬を飲んだ時に感じたものと、同じだった。


 頭を這う手からも生まれる快感に、ロゼが唖然としていると、髪が乱れるほどきつく抱き込まれた。

 ハリージュの唇が僅かに、ロゼの耳を擦り、もう一度感触を味わうように撫でた。


 ハリージュが長い息を吐いて、呼吸を整える。


「……ロゼ」


 口付けを強請っているような、色に塗れた吐息が、首にかかる。


 麻薬のような声がロゼの耳を溶かした。

 顔が熱い。魔法が正常に作用して、顔色の戻ったハリージュとは反対に、ロゼの顔は真っ赤に染まり上がっていた。


 ハリージュが、慎重にロゼから離れる。

 顔を真っ赤にし、わなわなと震えている涙目のロゼを見て、ハリージュがもう一度ロゼを抱きしめた。


「駄目だ、可愛い」


 ぎゃー! とロゼは心で悲鳴を上げる。


「駄目くない!」


「駄目だ……可愛い……」


「わああああああ!!」


 失神できるものなら、してしまいたかった。

 やはり神は、魔女の家まで見守ってはくださらない。




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