第三章 透き通った湖と薄とスキヤキと魔女との隙間
第45話
「結婚の話を進めようと思っている」
ハリージュが涼しげな声でそう言ったのは、夕食後の歓談の席でのことだった。
ロゼの喉から空気がせり上がり、ゲフォッと汚い音を立てる。
慌てて唇を閉じたおかげで大惨事にはならなかったが、あまり人に――それも好きな相手に――聞かせたい音では無い。なんとか必死に紅茶を嚥下すると、ツンと痛む鼻頭を押さえた。
「ええと、はい、ええ、そうですね。そのような話も、ええ」
何が、そのような話も、だ。ロゼは心の中で自分で突っ込んだ。
全く気にしていない振りをしていたが、実はかなり気になっていたからだ。
いくら世間知らずなロゼとは言え、求婚してきた男の家に、何の考えもなしに世話になっているわけではない。婚約者として居座るのではないといえど、その先を――将来的には結婚を見据えていなければ、こんなところまで来やしない。
求婚はハリージュからだったが、彼は食客として屋敷に招いたロゼに、結婚を急かすことは無かった。
だが、ティエンが花嫁道具を持ってきた後も、何も変化がないことにロゼの方が焦り初めていたのだが――ついにこの時が来たようだ。
そうかそうか。来てしまったのならば仕方が無い。
ロゼはにんまりとしそうな頬を、両手の指先で押し上げた。変な顔になってしまっている気がして、すぐに手を外す。
頬杖をついたロゼは、ローブの裾で口元を隠した。これ以上気を抜けば、喜びに逆らえず、顔中の筋肉が無様に垂れ下がりそうだったからだ。もしロゼが今一人だったなら、万歳しながら飛び上がっていたに違いない。
向かいのソファに座るハリージュは、夢の結婚の話をしているというのに、渋そうな顔をしている。ロゼは小首を傾げた。
「何か問題でも?」
「いや……むしろそちらに問題が無ければ進める」
煮え切らない物言いだ。
世の人々は、こういった婚約者の態度とも付き合い方を覚えていかねばならないのだろう。
婚約者。
ロゼは自分で言って自分で照れた。
この溢れんばかりの感情が顔ににじみ出さないよう、ロゼは顔面に力を入れる。力が入りすぎて眉間にも鼻の上にも皺が寄った顔で、ロゼは頷いた。
「ええ、大丈夫かと」
「――煮え切らないな」
片眉を上げたハリージュが不服そうに呟くので、ロゼは噴き出しそうになった。
「なんと。先ほど私も同じことを思いました」
「何?」
「いえ、ははは」
ロゼはソファから立ち上がると一礼して、逃げるように自室へと駆け込んだ。その足取りは、ルンタッタと軽やかだった。
***
「見ぬ顔だ」
聞いたことの無い声がした。
鶏小屋から出てきたばかりのロゼは、小屋の扉を慎重に閉める。
そっちこそ、見ない顔だ。
ロゼは鶏小屋の前に立ち、声の主を見据えた。
そこにいたのは一人の男だった。
年の頃はハリージュとさほど変わらないだろう。すらりとした長身に、仕立ての良い紳士らしい服を纏っている。顔立ちは整っていて、甘いが年相応の色気が乗っていた。
長い烏羽色の髪は結われ、無造作に解けているのが更に彼の艶を増した。朝の光を受けた瞳は、よく磨いた翡翠のように輝いている。
ロゼがこの屋敷に世話になり始めて既にふた月が立つが、この屋敷に訪れるものは少なかった。いつも決まった粉屋の息子や、灰の回収業者や、郵便配達員だけが訪れる。
「そういえば、ハリージュが新しくメイドも雇ったと言っていたな。おい、ここに令嬢が来てるだろう? 顔を合わせたことはあるか?」
まだ空が紫がかっているような時間から、先触れも無く一人で屋敷を訪れるとは、随分と常識はずれな男である。少なくとも、ターラならばそう判じるだろう。
人の世に不慣れなロゼに、ターラは様々なことを教えてくれた。『変な男に近づいてはならない』『お菓子を持っていても、知らない人にはついて行ってはならない』と口酸っぱく言われている。
しかし非常識なこの男が、非常識でも許される人物なのだと、ロゼはなんとなく予想が付いていた。
貴族の生まれであるハリージュに、これほど礼を欠いても許されるのは、それ以上の身分のものに他ならない。
こんな早朝からやってやって来て、ハリージュとの親しさを強調したいのか知らないが、匂わせなら余所でやってほしいものである。何と言ってもこちらなんて、
なんとなく対抗心が沸いたロゼは、男の質問を無視した。
採ったばかりのほかほかの卵を入れた籠を置き、靴裏に付いている泥を木の枝で擦って落とし始める。
「客が来たのに何をし始めたかと思えば……
靴の裏にこびりついていた泥を見て、男がわかりやすく引いている。むくむくと反発する心が膨らむ。この男とは、相性がよくないようだ。
木の枝を放り投げてやりたくなったロゼは、不快さを隠すためにローブのフードを深く被り直した。
その姿を見て、男の顔が固まる。
「――魔女か」
これまでの軽薄な雰囲気から、ピリリと痺れそうな緊張感を孕んだ空気に変わる。
魔女のローブに特段、特別な製法などないが、暗い色の生地で出来た、深いフードのあるローブを、人は好んで着ようとは思わない。一見して、魔女に見えるからだ。
つまり人目を気にせず、暗い色の生地の深いフードがついたローブを着るのは、基本的に魔女である。
鳥の糞でかたまった籾殻の塊が付いた枝を、ぽいっと捨てる。
ロゼは男を一瞥すると、男に向かって歩き始めた。男が鋭い視線を向ける。
ロゼが一歩、また一歩と男に近づき、男の横で屈んだ。そこには、ロゼが先ほど水を汲んだ木桶があったのだ。
桶を抱えたロゼは、手を突っ込んで小屋の周りに水を撒いていく。
雲の様子を見ていると、今日は随分と暖かくなりそうだったからだ。庵にも、早めに向かった方がいいだろう。
ロゼが打ち水をする様子をぽかんと見ていた男は、不可思議そうに顔をしかめる。
「そなた――」
「あ」
ロゼが声をかける暇もなく、話しかけながらロゼに近づいてきた男がずるりと滑った。水を撒いたばかりでただでさえ滑りやすいのに、鶏小屋の周りには藁や籾殻が落ちていている。滑りやすいのは当然だ。
濡れた土の上を、滑った男は尻餅をついて呆然としている。鶏の糞や籾殻がべっとりと服に付いた男を笑うかのように、鶏たちが小屋の中でコケコケと鳴き始める。
ロゼは男をしばらく見ていた。男もロゼを見ている。
しばらく互いが見つめ合っていると、屋敷の方から慌ただしい足音が聞こえた。
「――何をやってるんだ!」
中庭を大股で歩いてきたのはハリージュだ。ロゼは慌てて声をかける。
「ハリージュさん。そこは水を撒いてるので、滑りやすくなっています」
ロゼの制止を聞き入れたハリージュは、ゆっくりと歩み始めた。
「なっ……私には一言も注意などなかったではないか!?」
「こんな朝っぱらから急に来たかと思えば……何を騒いでいるんだ」
座り込んでいた男に、ハリージュが手を差し伸べた。男がロゼが想像しているとおりの人物ならば、随分と気安すぎる対応だ。
男が助けられる様を見ながら、内心で驚いていると、立ち上がった男が汚れた尻や服を見ながら顔をしかめる。
「女と言うても、魔女ではないか」
聞き慣れた蔑みの言葉だ。
傷ついた表情一つ浮かべず、澄ました顔のままロゼは男を直視し続ける。
ハリージュは片眉を上げて不快を示した。
「魔女なんだから女に決まっているだろう」
「いやそういう意味ではなく……」
男は自分の意見がハリージュに伝わらなかったのかと、言葉の意味を正しく伝えようとした。しかしハリージュの顔を見た男は、彼があえて男の暴言を聞かなかったふりをしたのだと気付いたのだろう。
言葉を止めた男に、ハリージュがしっかりとした声色で伝える。
「この件に関しては、たとえあんた相手でも議論するつもりは無い」
「まさかハリージュ、お前……」
懐からハンカチを取り出したハリージュは男に押しつける。そのまま何かを問おうとしていた男を無視して、ロゼの方を向いた。
「すまない。この男が失礼なこと言った。突然で驚かせただろう。この男は友人で、ヤシュムという」
予想していたとおりの名前だった。
ヤシュムといえば、現在のハリージュの護衛対象であり、先日客として相まみえた、ラウーことビッラウラの兄であり、そしてここら一帯を治めるマルジャン王の二番目の息子の名であった。
「他には何もされていないか?」
ロゼは、ハリージュのハンカチを使って慎重に服から汚れを取ろうとしているヤシュムを見る。ハリージュがヤシュムを王子として扱わないのは、お忍びだからなのだろう。
「失礼なことは言われましたが、同じ格好にしてやったので、満足してます」
鼻で笑った魔女を見て、ヤシュムが顔を引きつらせた。
「なあ、ハリージュ。そんな馬鹿なと笑ってくれよ。まさかお前の婚約者と言うのは――」
「彼女だ。ロゼという。また改めて紹介するから、まずは着替えてこい」
無情に断言したハリージュに、ヤシュムは唖然とした顔を向けて立ち尽くした。
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