第44話

中庭を隔てる回廊の柱に隠れている、暗い色のマントを身につけた小さな人影が見えたからだ。


 人影が誰かを察したヤシュムは、悪あがきと知りつつ、噴水の水で顔を洗うと立ち上がった。


「いいか……先ほど魔女だなんだと言っていたが、アレ《・・》の前では絶対に口にするなよ」


「ハッ」

「承知致しました」


 不愉快を隠しもせずに顔をしかめたヤシュムが、ハリージュとゲオネスに厳命する。

 ヤシュムは背を伸ばし、二日酔いとは誰も思わない堂々とした足取りで、人影へと歩いて行く。


 ヤシュムに気付かれたことを悟ったらしい人影は、びくりと身を震わせた。

 しかしこんなに開けた場所では、右にも左にも逃げることが出来ずに、オロオロとしている。


「ルゥルゥ、何をしている」


 声をかけられた人影はぎくりと体を強張らせると――ゆっくりと振り返った。

 その表情に浮かぶのは、観念したような表情ではなく、なんともたおやかな笑みだった。


「まあ、おかえりなさいませ。今日は随分とお早いお帰りなんですね」


「色々とあってな」


 ハリージュとゲオネスは礼に則り、頭を下げた。

 頭を下げられることに慣れた様子の少女は、片手を少し傾ける仕草で、二人に顔を上げることを許した。


「兄様と朝から会えるとは思っておりませんでした。今日はよい一日になりそうです」


 おっとりとした口調の少女は、マルジャン国第四王女ルゥルゥである。

 十一歳になったばかりの彼女は、国の至宝とも讃えられる笑顔で微笑む。乳白色の髪は朝日を受けて、真珠のように美しい光沢を放つ。


「ところでルゥルゥ。先ほどの問いの答えを、まだ貰っておらんようだが」

「なんでしたっけ?」

「ここで何をしているのか、と問うたのだ」

「そうでしたわ。でも兄様、変なご質問だこと。中庭は散策するために存在しているんですのよ。朝のお散歩に、理由がいりまして?」

「朝の弱いお前がか? 兄様を出迎えようと、早起きしたわけではないようだ」


 ルゥルゥは笑みを絶やさずにヤシュムを見続けている。


「朝の弱いお前を、こんな朝早くから警戒するものはいないだろうな。ベッドから抜け出して、何をしている? 大好きな姉様ビッラウラに感銘を受けて、外をほっつき歩いていた、なんて言わんでくれよ」


「ほっつき歩くなんて言葉、お母様がお聞きになったら卒倒してしまいますわよ」


 ふわりと微笑むルゥルゥの天使のような笑顔に、ヤシュムはついほだされそうになった。しかし、ここはルゥルゥの自室の近くではないし、人目を避けるようなローブ姿も不自然極まり無い。

 人知れず、城を抜け出そうとしていることは明らかだった。これほど堂々と受け答えが出来ているのは、抜け出すのが初めてでは無いからだろうと、ヤシュムは怪しんだ。


「ばあやはどこだ?」

「最近、どうも膝が痛いようですの」

 常に付き添っている老年の侍女を心配するように、ルゥルゥは瞳を曇らせた。


「ばあやでは、お前の付き添いは骨を折るようだ。お前の監視について、しばらくは私が采配を振ろう」


「まぁ……。――兄様に手間をかけさせるわけにはいきませんわ。それに兄様に心配をおかけするのは、ルゥルゥの本意ではございません。お心安らかに過ごしていただけるよう、しばらく外出を控えます」


「いい心がけだ。だが、兄様も心配なんだ。わかるな?」


 ヤシュムの言葉は、ルゥルゥの監視の目がこれまで以上に厳しくなることを決定づけていた。

 自主的に謹慎することで監視を取りやめてもらおうとしていたルゥルゥは、交渉の失敗を悟る。瞬きの間、真顔になったルゥルゥは、次の瞬間には誰もを魅了する笑みをふわりと浮かべる。


「――そういえば」


 パンッ、とルゥルゥが両手を叩いた。


 その音の衝撃に耐えきれなかったは、絶賛二日酔いやせ我慢中のヤシュムだった。頭を静かにのけぞらせ、顔をしかめる。


「ハリージュ。貴方、屋敷に女性を招待していると聞きました。おめでとうと言ってもよろしくて?」


「お前まで知っているのか……!?」


 よろり、とヤシュムがよろけたのは気分の悪さだけでは無いようだ。

 しかし妹の手前、無様に倒れるわけにもいかず、何とか踏ん張ってヤシュムはハリージュを見た。


「ありがとうございます、ルゥルゥ様」

「まぁ、やっぱり。必要なのは激励? お祝い? 何がよろしいかしら」

「お心遣いだけで十分でございます」

「まぁ。兄様も、そしてラーラ姉様も兄と慕う貴方の幸せを、ルゥルゥが喜ばぬわけには参りません。何がいいでしょう……そうだわ!」


 また両手を叩くと察したヤシュムは、今度はパンッという音が響く前に、密かに顔を逸らして音を逃れた。


「”魔女の惚れ薬”は、いかがです?」


 ハリージュの耳がピクリと動く。


「お前はまたそんなことを」

「ふふふ。兄様には必要でしょうけれど」

「こら、ルゥルゥ」


「ハリージュ、貴方には不要のものでしたね。その顔で甘く囁かれて、落ちぬ女はおりませんもの」


 返事に困ったハリージュを見たヤシュムが、にやーっと口の端を持ち上げた。


「なんだ。落ちぬのか?」

「黙秘します」


「あら、まぁ」 

「ほう」


 兄妹そろって、目を輝かせる。

 これ以上の言及には何も答えないぞと言う意思表示のために、ハリージュは目礼をして一歩下がった。





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