第46話

 ヤシュムが着替えている間に、ロゼは採卵した卵をターラのもとに届けに行く。

 急な来訪だと言うのに、使用人達は随分と慣れているようだ。驚きの表情一つ浮かべず、ヤシュムのための着替えの服や温めた布巾を用意していた。


 ターラから昼食の入ったバケットをいつも通り受け取る。窓から差し込む陽も高くなり始めている。ロゼとしては、そろそろ庵に向かいたい時間である。

 何も言わずに出かけてもいいが、ハリージュに一言断ってから行きたかったため、ロゼは客間に向かった。


 近づくと、話し声が聞こえてきた。

 開いたままのドアから、ハリージュ達の様子が見える。


 ハリージュは立ったまま話をしているようだ。ロゼからは見えない位置にあるソファにヤシュムが座っているのだろう。

 どうやらすでに着替えは終えているような、のんびりとした口調だった。


「――しまおうと?」

「結婚さえしてしまえば、後は好きに――」

「馬鹿め。そんなものは、愚かな男の都合のいい妄想だ!」


 ヤシュムがハリージュの浅はかな発言を笑い飛ばす。続くハリージュの沈黙が不服さを物語っている。


 ロゼはなぜかピタリと足を止めてしまっていた。不思議なくらいに心が重くて、足が動かない。


『結婚さえしてしまえば、後は好きに――』


 後は好きに?

 その後は声が小さくなり、よく聞こえなかったが――この後に続く言葉が、一体どれ程あるだろうか? 


 好きに生きてもらう?

 好きに出来る?

 好きにさせてもらう?


 何が続いても、いいイメージとはほど遠い。


 それに加え、「愚かな男の都合のいい妄想」ときた。一番簡単に想像できてしまい、なおかつ確率が高そうなのは――女性関係ではなかろうか。


 まさか未来の夫が、親友と不倫の話に花を咲かせているとは思いもよらず、ロゼは強いショックを受けていた。


 ロゼは魔女だ。魔女は約束を重んじる。


 ロゼにとって結婚とはつまり、愛し合う二人が行う約束――契約の一つだと思っていた。


 魔女は子供を為すのに、結婚を必要としない。

 子は種子を貰えば、魔女おんなの手で育てていくことができるからだ。


 階級や家系に縛られないロゼにとっての結婚は、生きていくために不必要な契約ですらあった。


 それでもハリージュの求婚に応じた理由はひとえに、ロゼが彼を愛しているからである。人の彼が求める人の営みを、受け入れてもいいと思ったのだ。


 なのに、結婚してくれとロゼに言い募ってきたハリージュの先ほどのセリフは、あまりにも不適切で、不誠実なものに感じた。


 ――遠い異国には「フリンハブンカ」という呪文があると、祖母の遺した魔法の本に書いてあった。

 しかしそんな呪文に頼らずとも、この国の貴族は結婚後に、恋を楽しむのだ。


 ロゼは忘れていた。

 恋を憚らないからこそ、魔女はまだ看板をかけ続けることができているのだと。


「――ゼ、ロゼ」


 はっとしたロゼは、いつの間にか俯いていた顔を上げた。


「どうかしたのか」


 部屋の前で考え込み、立ち止まってしまっていたロゼを見つけたハリージュが様子を見にきてくれたようだ。

 ロゼは微かに視線を逸らしながら、返答する。


「そろそろ戻ろうと思いまして」

「何処へ戻るというのだ。針山の城か? それとも、毒の沼か? まさか、人の立ち寄らぬ森の奥深くとは言うまい。あそこはうちの庭なんだか、数百年前から勝手に巣を構えてる迷惑な女王蜂しかおらんぞ」


 ハリージュに向けて言ったのに、返答したのはソファに踏ん反り返っているヤシュムだった。ハリージュは酷く厳しい視線をヤシュムに向ける。


「今一度、はっきり言っておく。次、彼女に失礼なことを言えば、俺はあんたの騎士を止めなくてはならない」


 あれほどすらすらとロゼに嫌味を言って聞かせたというのに、ハリージュに諫められたヤシュムは口をぽかんと開く。


「……ハリージュ、これは夢だと言ってくれ」

「これは現実な上に、俺は本気だ」

「なら偽物に違いない。俺の知っているハリージュは、そんな風に女を扱わない」

「なら、お前の知らない俺になったんだろう」


 延々と続きそうだった会話をぴしゃりと言い切ることでハリージュが止めた。

 そして、未だショックの色が濃い表情のヤシュムに、ロゼを見せるためにハリージュが身を引いた。


「ヤシュム――彼女は”湖の善き魔女”ロゼだ」


「なるほど。……どうぞお見知りおきを。魔女ロゼ――それともレディ・ロゼと呼ぶべきか?」


「魔女と」


「ではロゼ。この家の住み心地はどうだ?」


 魔女と呼べといっているのに、ヤシュムは名前で呼んだ。ハリージュに、自分よりもロゼを優先された意趣返しなのだろう。ロゼは素直にムッとする。


 だが、何かを言い返そうとは思えなかった。ロゼは今、こんな鶏のクソまみれだった男にかかずらっているような、精神状態ではないからだ。


『結婚さえしてしまえば、後は好きに――』


 先程から何度も同じ言葉がロゼの頭で繰り返されている。その為、ハリージュとヤシュムの応酬もほとんど耳に入っていなかった。ロゼはハリージュの顔を、まともに見ることさえできない。


「畑の水やりがありますので、私はこれで」


「……は? おい、おい待たぬか!」


 騒ぐヤシュムに目もくれず、ロゼはそのまま一礼して立ち去った。

 




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