第47話

 湖に囲まれた魔女の庵の真ん中で、あぐらを組み、乳棒をぐるぐると回す。

 足でしっかりと抱えた乳鉢が、微かな振動をロゼに伝えてくる。


「あっやばい。擦りすぎた」

 魔女の秘薬となる薬の材料が、望む形から随分と小さくなりすぎていた。


 明らかな失敗を前に、ロゼは身を床に投げ出した。

 ぶふぁりと埃が舞う。


「薬を作り間違えるなんて……何年振りだろう」

 ”湖の魔女”の名を継いだばかりの頃は、失敗に明け暮れていたが、ここ最近は自分でも満足できる仕事ができていたのに。


 失敗の原因を、ロゼは正確に把握していた。


「結婚さえ、してしまえば……」


 朝にハリージュから聞いた言葉に、完全に思考を支配されていた。

 いつもやっている畑の世話も、慣れた調合も、気を抜くと間違えている。こんな経験は初めてで、ロゼはそんな自分に困惑していた。


『俺と結婚してほしい』


 そうハリージュが言った時、『まだ薬に振り回されているだけだ』と宥めるロゼを彼は否定した。それが今さらになって、やっぱりあの言葉は惚れ薬の効果が残っていたせいだとでも言うのだろうか。


 ロゼはその可能性を全くと言っていいほど考えていなかった。人と接することなく生きてきたロゼは、人は嘘をつくと頭では理解はしていても、実感を伴っていなえていなかったのかもしれない。


 生真面目で上から目線なハリージュからの告白を、ロゼは自分でも驚くほど自然に、真摯に受け止めていた。彼からの求婚を、貴族の戯れと考えるには、ハリージュの優しさに触れすぎてしまっていたのかもしれない。


 まるで刷り込みのように、自然にハリージュの言葉を信じていた。

 だからこそ、ハリージュから放たれた言葉が、ロゼには到底信じられなかった。


 だが一瞬でも、ハリージュを臆面もなく信じていた自分を「浅はかだった」と捉えてしまうと、これまでのようにただ信じる自分が、愚かなように感じる。


 一つ先に行ってしまった自分が、少し手前で立ち止まったまま、盲目に彼を信じるロゼを嗤っている。


 ロゼはハリージュを信頼した。信じようと思った。

 その結論を出したのは自分だ。


 そして、その結果に責任を取るのも、また自分である。


 疑えばいいのか、信じればいいのか――何が正しいことなのか、ロゼはすっかり自信を持てなくなってしまった。


「……今日はもう、帰ろう」


 これ以上ここにいても、いたずらに材料を消費するだけだ。

 力なく立ち上がると、床から埃が舞い上がった。埃を叩く気力もなく、ローブの裾を灰色に染めたまま、ロゼは庵を出た。


 外に出ると、もう陽は山の端に落ちようとしていた。今日やる予定だったことの、半分もできていない。

 茜色に染まった湖と、いつも以上に散乱した室内を交互に見たロゼは、がっくりと肩を落とす。


 戸締まりをして、看板を裏返す。鍵を首からぶら下げて、オールを手に取ったロゼはびっくりして目を丸くした。


 桟橋と森の境界の部分に、ハリージュが立っていたのだ。


 共に庵へ赴くことはあっても、迎えに来たことなど無かった彼がそこにいることに衝撃を受ける。

 自分を迎えに来なければならないほどの何かが、屋敷であったのかもしれない。ロゼは逸る気持ちで小舟を漕いだ。


「何かあったんですか?」


 いつもの無表情だが、声には焦りが滲んでいた。ロゼの焦りを感じ取ったハリージュがゆっくりと首を横に振る。


「今日は非番だったから、迎えに来ただけだ」


 迎え。ロゼは驚いて一瞬固まってしまった。


 好きな人が迎えに来るなんて、なんだかすごい世界線に来てしまったものだ。漠然とロゼが思い描いていた未来には、そんな出来事イベントは存在しなかった。


 彼への不審を抱いていたことも忘れ、盛大に照れそうだった自分を隠すために、ロゼは口を開く。


「なら、お休みの日だったというのに、彼のせいで仕事が増えてしまったんですね」


 休みの日とはいえ護衛対象を、一人で帰らせることはないだろうと思って言ったロゼに、ハリージュは首を振った。


「いや、屋敷の周りに騎士を待機させていたから、彼のことは心配ない」


 たとえ鳥の糞まみれになるような男でも、王子としての自覚は持ち合わせているようだ。ならばハリージュも、友人と歓談した後は護衛に任せ、ゆっくりできただろう。


 ハリージュがじっとロゼの足下を見つめていることに気付いて、ロゼも視線を落とした。どうやら、汚れたまま放置していたローブの裾を見ていたようだ。

 ロゼは何気ない顔を装って、パンパンと汚れを手で払い落とす。


「――今日はもういいのか?」

「いいのか、とは?」

「帰るのか?」

「はい。これ以上あそこにいても――」


 仕事にならないので。と言いそうになり、口を閉ざす。

 何故だと問われて答えきれる自信が無かった。言葉を止めたロゼに何を思ったのか、ハリージュが顔を歪める。


「やはり、ヤシュムが何か言ったんじゃないのか?」

 まだそのことを心配していたのかと、ロゼは驚いた。心配させたくなくて、きっぱりと言い切る。


「いいえ。彼は何も」

「なら、俺か」


 ロゼは咄嗟に、返事ができなかった。



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