第六章 在りし日の小さな魔女

第63話



 藍を溶かしたような空に、薄い雲がたなびいている。虫の音を伴奏に、夕日は山の端を黄金に染めながら退場していく。


 秋である。

 乾いた冷たい風が吹き始め、ロゼもローブの下にもう一枚着込みたいような、そんな季節。

 そろそろ冬支度をせねばならないが、いまいち身に入らないでいた。


「……またいらしてたんですか」


 屋敷に戻ってきたロゼは、何故かサフィーナにサロンに案内された。

 そこで長椅子にふんぞり返っているヤシュムを見るなり、自然と言葉が零れていた。


 もう日も暮れている。この時間までここにいるということは、晩餐に招いたのだろう。

 いつもならほとんど帰っている使用人達が、まだ残ってパタパタと走り回っていることからも、その事実が伺えた。


 開け放たれた窓から虫の鳴き声と、ほんのりと濡れた土の匂いが届く。


 黒く長い髪をまとめもせずに、ソファの背もたれにもたれ掛かっていたヤシュムが、ふんと鼻を鳴らした。


「やかましい。言うておくが、お前よりも先に私はここに通い始めたんだからな。新参が、出しゃばるなよ泥棒猫」


 ロゼはサロンを見渡した。

 どうやらハリージュはいないようだ。食堂で、晩餐の準備の指示でもしているのかもしれない。


「――おい、おい魔女」


 魔女と呼ばれ、ロゼはヤシュムの方を向いた。

 彼は以前、魔女と呼べと言ったにもかかわらず、ロゼと呼ぼうとしていた気がしたからだ。何故かはわからないが、魔女と呼ぶようにしたらしい。


「きちんと聞いているのか」

「なんでしょう」


 言外に聞いていなかったと告げれば、ヤシュムは額に青筋を浮かべる。


「だから、ことの重大さをわかっておるのかと聞いている」


 声が抑えられているのは、他のもの――ハリージュに聞かせたくないためだろう。ヤシュムが何故今日ここにいるのかはわからないが、彼は自分とこの話をするために来たのだと、ロゼは直感で思った。


「三男坊とは言え、ハリージュは由緒正しきハイズラーン伯爵、アズム家の息子だ。騎士として身を立てていくにせよ、あやつが何を犠牲にし、お前を選んだのかわかっているのかと聞いておる。魔女と結婚など……あやつのためを思うのならば、身を引くのが筋では無いか?」


 ロゼが初めて見るヤシュムの真剣な表情は、威圧的でもあった。声に潜むのは、尊き精神と、ハリージュへの慈しみの心だ。


 ヤシュムの言葉を咀嚼したロゼは、小首を傾げた。


「……はあ」


「はあ?? なんだその気の抜けた返事は!」


「いえ……」


 不満げな顔をしているヤシュムに視線を合わせると、無表情のままロゼは言った。


「自分の決断を信頼されていないなんて――それはとても、歯がゆいだろうと思いました」


 ロゼは祖母が死んでからずっと、自分のことは自分で決めてきた。


 やりたいことをやったし、やりたくないことはやらなかった。

 そのツケは全て、自分で払ってきた。


 それがいいことかどうか、ロゼには判断がつかないが、ロゼにとっては当然のことであった。


 そして、そのロゼの生き方をハリージュは侮らなかった。


『あんたが考え、判断することは――尊重すべきことだと気づいた』


 ハリージュはロゼの判断と決意を信じてくれた。


 それはロゼにとって、大きな力となった。

 彼が信じてくれているなら頑張れると思えるほどに。


 ヤシュムの言っていることは、勿論ハリージュも把握していることだろう。ということは、ハリージュは既に熟考しているはずである。


 ヤシュムが言うように何かを犠牲にしなければならないのであれば――万が一それが、自分以外にも影響を及ぼすことであれば、彼は軽はずみな判断を絶対にしなかっただろう。


 結婚の話を反故にしたいなら、いくらでも時間はあった。

 しかし彼は、ロゼをそばに置き続けた。


 ならばロゼは、魔女として――そしてロゼとして、彼のそばで支えるだけだ。


「お前……思っていたよりも馬鹿では無いのだな」


 決めた。ロゼは魔女であるが故に”魔女の秘薬”の扱いについて十分に注意しているが、その内絶対に、秘薬でヤシュムに痛い目を見せてやるとロゼは心に誓った。


「だが、人の中で生きるなら――」

「ヤシュム」


 ロゼとヤシュムは、ハッとして声がした方を見た。開け放ったままだったドアのところに、ハリージュが渋い顔をして立っていたのだ。


「飲み過ぎたか?」


 ハリージュの視線に、ヤシュムはばつが悪そうな顔をする。

 そして、ソファの横のサイドテーブルの上にある、口を付けていなかったグラスを一気に呷る。


「ああ、そのようだ」

 ブランデーを飲みきったヤシュムを、ロゼが指さす。


「この人に馬鹿にされました」


「思っていたより馬鹿では無かったと言ったんだ」


 子供の喧嘩のような言い合いに、ハリージュはため息をこぼす。


「……どうしてあんたはそう、ロゼにだけ子供みたいにつっかかるんだ」


 ヤシュムはソファの肘置きにもたれかかり、大仰に手を開いた。

「挨拶一つ許してもらえぬならば、これもしようのないことではないか?」

 挑発的な視線を受けて、ロゼはフードを深く被り直す。


「挨拶とは?」

「しらばっくれるな。手を出しもしないでは無いか」

「手?」


 自分の手を見て、ロゼは思い出す。

 マルジャン国の礼儀作法の中には、手の甲へ口付けることもあると、ついこの間知ったばかりだった。

 ウェディングドレスの試着の際、ターラにぼろくそに怒られたティエンが、彼女の怒りを静めるため指先に口付けていたのだ。


 これまでレディとして紹介されたことなど皆無だったロゼは、淑女としてのマナーなど当然知る由もない。

 ハリージュが「魔女のままでいい」と言ってくれているとは言え、やはり今度、淑女としての心得を学ぶべきなのかもしれない。


 今後もハリージュの隣にいるのなら、こういった場面に遭遇することもあるだろう。

 人にどう見られようとかまわないつもりだったが、彼の隣で、彼に恥をかかせ続けることはロゼも本意では無い。


 それに、知らない知識を学ぶことは、ロゼにとって苦ではない。

 ロゼにとって何よりも避けたいことは、魔女であるロゼが死んでしまうことだった。


 ロゼはスッと手を動かした。


「お望みのようですよ」

「俺のじゃ無い」


 ハリージュの手に口付けさせようとしたロゼが、彼の手首を掴むが、渾身の力を持って阻止される。


 礼儀を学ぶのはアリ寄りのアリだとは言え、ヤシュムに指先に口付けを――たとえ真似とは言え――されるのはナシの中のナシだ。


 ロゼがどれほど力を込めても、ハリージュの腕はぴくりとも動かなかった。そんなハリージュがまた格好いい。

 じゃれ合っている二人を見て、ヤシュムが頭を抱えた。


「もうよい、もうよい。これ以上見せつけてくれるな」


 いちゃついていたつもりは無かったが、ロゼはスッとハリージュから離れた。

 恋人との関係をからかわれることには慣れていない。


「全くなぁ……それほどに仲睦まじいとは。お前達、一体いつ何処で出会ったのだ」


 ドキリとした。ハリージュがロゼのもとに訪れたのは、彼の前の主人――ヤシュムの妹ビッラウラの命令があったからだ。


 しかし、ハリージュはかつての主人の名誉を、そしてロゼは客の情報を守らねばならない。


 ロゼは魔女だ。魔女は嘘をつけない。


 その上で、この問いには不信感を残さぬように答える必要があった。


 深く被り直したフードのおかげで表情は見えていないだろうが、ロゼは極力気をつけて平常通りの声を出す。


「さぁ――」

「五年前だ。街で出会った」


 ロゼを助けるためにか、ハリージュがすかさず答えた。


 その内容に、なるほどとロゼは頷く。

 確かに五年前、ロゼはハリージュと会っているし、それを彼にも伝えたことがある。嘘が無い言葉は、ロゼにとって対応しやすい。


「ええ、そうです」


「その時に、ロゼが俺に惚れたんだ。そうだったな?」


 ロゼは絶句した。


 何故知っている。

 ぽかんと口を開けたロゼを見て、笑っていたハリージュまで驚きの表情に変わっていく。


 ロゼは自分の失態に気付いた。


 彼はヤシュムを笑わせるために、冗談を言おうとしたのだ。


 ここでロゼは「そんなわけない」と言う言葉を期待されていた。


 ハリージュは当然、ロゼがそう言うと思っていたに違いない。ハリージュがロゼへの恋を自覚したのが最近ならば、当然のようにロゼも最近だと――そう思っていても不思議は無い。


 ロゼは魔女だ。魔女は嘘をつけない。


 驚きに目を見開いていったハリージュの頬が、ほんのりと赤く染まった。


 彼は、ロゼの沈黙の意味を知っている。


 そんなハリージュを何とか誤魔化したいとロゼは口をパクパクとさせるが、何も言葉が出なかった。「違う」も、「そんな訳が無い」も、ロゼには荷が重い言葉であった。


「……干しナメクジてんこ盛りうんこデラックス!!」


 ついに言い放てたのはそんな言葉だった。目に涙を浮かべてそう叫ぶと、ロゼはローブを翻すほど走ってサロンから出て行った。






「……なんだあれは」


 何故かロゼが消えた場所を唖然として見ていたヤシュムは、幼馴染みを見て更に顔を歪めた。


「お前もお前で、何をしておるんだ」

「いや……すまない」


 顔を手の平で覆ったハリージュは、にやけないようにするのに必死だった。一瞬でも気を抜けば、口の端が大きく持ち上がってしまう。


「あんたは存外、いい仕事をした」

「左様かい」


 ヤシュムは、全ての感情を捨てたかのような声で応えた。




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