第64話


 真っ黒のドレスに袖を通す。


 もう何度目かもわからない、ドレスの試着である。


 仮縫いのために借りた一室からティエンを追い出し、彼の連れてきた裁縫師とモナだけがロゼを見守る。


 もう式は目前に迫っている。これが最後の確認作業だ。

 裁縫師は薄っぺらいロゼの体でも少しは見られるように、卓越した技術で完璧なドレスを縫い上げた。

 式で横に並ぶハリージュとの身長差があるために、靴もかなりヒールが高い物を履く。着馴れぬ窮屈なドレスと、こんな頼りないヒールでは、ただ真っ直ぐ歩くだけでも一苦労だ。


 裁縫師が帰った後、へとへとになってロゼはソファに座り込んでいた。


「だいぶ疲れたようだね。菓子でも食べるかい」


 ロゼはピンと背筋を伸ばした。

 菓子に対する礼儀である。


 ティエンが持ってきていた菓子を、モナが用意してくれている間、そわそわとロゼの体が揺れる。


 皿に盛り付けられていたのは、美しい菓子だった。なのに一目で美味しそうだと思った。


「丁度珍しい菓子が手には入ってね。なんとこの林檎は、煮ると赤くなるらしくって」


 ジャムを固めて作ったようなものだというその菓子は、綺麗な雫型をしていた。紅玉のように赤く輝いている。林檎の果肉を煮詰めて乾かしたものに、砂糖をまぶしているとティエンが教えてくれた。


 皿に並べられている状態でも美しかったが、指で摘まんで光にかざすと、格別な美しさを誇った。透明な果肉に光が集まって、宝石のように輝いている。

 こんなに赤い菓子を、ロゼは初めて見た。見ているだけで涎が出てくる。


 ロゼは菓子と同じほどに目をキラキラと輝かせながら、一口囓ってみた。菓子は柔らかく、なのに歯形が付くほどしっかりとしている。


 信じられないほどに、濃い林檎の味がした。豊かな果汁の味わいがぎゅっと詰まっている。

 少し酸味のある甘酸っぱい林檎の香りが、口の中に広がる。

 周りに付いていた砂糖の粒が唇に付き、ロゼは舌でなめ取った。


「そうだロゼ。こんなもの、知ってるかい?」


 お茶を啜りながら、ティエンがおもむろに荷物から取り出したのは、小さな小瓶だった。

 装飾が美しく、見るからに上流階級のものが好みそうな見た目をしている。


 ロゼには見覚えが無かった。ティエンが差し出すので、ロゼはかじっていた菓子を皿に戻し、受け取ろうとする。しかし、手が砂糖でベタベタとしているために躊躇していると、モナが布巾を濡らして持ってきてくれた。

 ありがたく受け取って指先を拭いて、今度こそ小瓶を受け取った。


「何? これ」

「教えて欲しいかい?」


 ティエンが身を乗り出して、ぐいっと顔を近づけてきた。新しく建てた秘密基地を自慢したがっている少年のような、目の輝きだ。


 仕事柄、ティエンは様々な情報を耳にするが、これまた仕事柄、それを誰にも漏らすことが出来ない。

 実の父にさえ、雑談に情報を交えることは無いと言う。


 だが、ロゼは魔女だ。

 魔女は決して客の情報を話さないし、そもそも人の世に興味が無い。

 昔から、おしゃべりなティエンの、体のいい息抜きにされていた。


「とある筋から入手したものなんだけどね。なんでも最近、やんごとなき方々の間で密かに人気の薬らしい」

「へぇ、薬?」


 薬と名のつく物には、一応興味がある。なんといっても、調薬で身を立てているのだ。


「前に話したことがあったろう。お得意様達が倒れていると」

「うん」

「あれがどうも、この薬のせいじゃないかって噂が出ているようだよ――その名も”魔女の惚れ薬”」


 濡れ布巾を片付けようとしていたモナが、ビクリと体を震わせた。その拍子に、彼女の手が皿にあたり、皿の上に乗っていた菓子が吸い込まれるように床へと落ちていった。

 ポトリと絨毯に落ちた菓子を見て、モナは顔を真っ青にさせる。


「た、大変申し訳ございません!」

「気にしないさ。ねぇロゼ」


 ロゼはうんと首を縦に振ることが出来なかった。ポロポロに剥がれた砂糖が、まるで涙をこぼしているように見えたからだ。


「ロゼ。僕のをあげるから。ロゼ」


 顔を上げなさいと言われ、ロゼは渋々菓子から視線を逸らす。

 心配そうにロゼを見ているモナに、神妙な顔をして言う。


「これ……あとで洗って食べますので、キッチンに――」


「ロゼ」


 制止の声を上げたティエンが、モナに菓子を運ぶように手振りで示す。モナは申し訳なさそうに頭を低く下げながら、落とした菓子を運んで行った。



「これほど食い意地が悪くなってるとは」

 呆れたような口調ではあるが、その顔はどことなく嬉しそうだった。なんとなく気恥ずかしさを覚えたロゼは、ふいと顔を逸らす。


「ティエンの意地の悪さは元からだけどね」

「僕が? 意地が悪い? 何故」

「あんなに近くにモナがいるのに、普通の声で話し続けたってことは、モナに聞かせるつもりだったってことでしょ?」


 先日、貴族の話題で表情を硬くしていたモナが、あの薬に反応することを見越していたに違いない。

 モナがロゼに布巾を渡すために、運良く近づいていたから、彼女も間近で薬を見ることが出来たが――こうなってくると、この菓子を手土産に選んだことさえ、何か意図があったのではないかと疑いたくなってくる。


 ティエンは狐のような目を、更に細めた。


「確信は無かったよ。でも、先日この話題が出た時に、様子がおかしいってロゼが言ってたからね。最近入ってきたばかりの子なら、余所の屋敷でこの薬を見たことがあるかなーと……」


 ゆるりと顔を上げたティエンは、ロゼの背後を見て言った。


「――ねえ。君は何処でこれを見たのかな?」


 律儀にも仕事に戻ってきたモナは、顔を真っ青にして部屋の隅に立っていた。

 話を振られ、モナは悲壮な声で返事をする。


「……存じません」

「大丈夫。君から聞いたなんて、誰にも言いはしないよ」

「……それは、ご命令でしょうか」


 屋敷に仕えるものにとって、主人の客は、主人以上に怒らせてはならない相手でもある。モナの声は震えていた。


「こら」


 ロゼは微笑んだまま何も言わないティエンの頭を、ポンと小突く。


「ハリージュさんのお屋敷で、無体はよく無い」

 ティエンは呆気にとられたような顔でロゼを見たが、すぐにふっと口角を上げた。


「全く……最近では父だって僕の頭をはたいたりしないっていうのに」


 ロゼは、まだ熱い紅茶を温め直すようにモナにお願いすると、モナはほっとしたような顔つきでティーポットを抱えて台所に下がった。





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