第11話
砂時計がさらさらと音を立てながら、ガラスの中で踊る。
鍋の中では、スパイスが紅茶の中を泳いでいる。
「オレンジとレモンをひとすくい、ふたすくい。マサラは庭の南の二番目の岩のコブの上の半分。シナモンはその半分。乳鉢の中でぐるぐると。どのくらい? このくらい。そうね、くじらが眠るくらい。甘いお砂糖はたあっぷり」
ブラックペッパー、カルダモン、マサラ、シナモン、グローブ、オレンジピール、レモンピール、生姜。
祖母秘伝のブレンドレシピは、いつだってこの歌が教えてくれる。
紅茶の香りを嗅ぐ。懐かしい香りと歌だ。
最近では、製薬のためにしか使われていなかったかまどだが、祖母が健在の頃には、様々なものを作ってくれていたことを思い出す。
スパイスを濾して、紅茶をカップに注ぐ。
「入りましたよ」
すでに座って待っている人がいるテーブルに持っていくために振り向くと、ふわりと薄紅色の髪が広がった。
ハリージュがいる時は、フードを外すようにした。
表情を見られる不安とともに、友人と街で顔を合わすたびに、友情を誓う握手をするような、そんな照れ臭さも生まれる。
だが、ロゼがフードを取る度に、懐いた犬が投げたボールを拾ってきたのを満足気に見るような顔をするので、これが中々止められない。
ハリージュが、読んでいた本を閉じる。
テーブルの上には、青磁の皿が二枚。木箱の中に、同じデザインの物が複数入っていたおかげで、気恥ずかしい思いをしなくて済む。
今日の差し入れは、ふかふかのパンと林檎ジャムだ。
瓶の中で輝くジャムは、暑い夏でも食欲をそそるような、甘酸っぱい匂いがする。
ハリージュは出された紅茶を口元に寄せると、ゆっくりとカップの縁に口を付けた。
「不思議な香りだ。初めて飲むが、悪くない」
林檎のジャムにも合うな。と続けたハリージュにロゼは驚いた。ロゼにとって紅茶とは、この味を言ったからだ。
「普通はどんな味なんですか?」
「基本的には茶葉だけで楽しむ」
「スパイスを入れないってことですか?」
「ああ。それに、鍋でいれるのを見たのもはじめてだったな。牛乳があいそうだ。今度手に入ったら持ってこよう」
スパイスを入れない紅茶も、牛乳を入れた紅茶も、味の予想がつかなかった。
ハリージュはロゼに新しい世界を沢山見せてくれるが、ロゼの大切にしている世界を否定することもなかった。育ちの良さを感じる。寛容さは、余裕があるからこそ生まれるものだ。
林檎のジャムを塗ったパンにかぶりつく。やはりパンはふわふわで、鼻から抜ける香りまで美味しい。
林檎のスッキリとした甘さが、食感を残した果肉にぎゅっと詰まっている。
「それほど美味しそうに食うのなら、食事に戒律などはないんだろう? 日頃からきちんと食事をとるべきじゃないか?」
ハリージュが呆れた顔をする。ロゼはもぐもぐとパンを頬張っているせいで答えられなかった。
「庭の畑はほとんどが薬草か?」
頰をリスのようにふくらませながら、ロゼはこくこくと頷いた。
「どんな物を作ってるんだ? いつも怪しげな薬を作ってるわけじゃあるまい?」
今度はしばらく時間をくれたので、ロゼは口の中のものをよく噛んで飲み込む。
そんな怪しげなものを求めてやってきているくせに、とやさぐれたくなる気持ちを抑える。
「お客様にも馴染みのあるような薬も、畑の薬草で作ったりします。よく作るのは、”打ち身に貼る薬”、”目に異物が入った時に入れる薬”、”肌がぴりぴりする時に塗る薬”、”肌から粉がふいた時に塗る薬”、”髪に塗ってしばらく放置していると若返る薬”、”燻すだけで虫を遠ざける薬”……」
”脇に塗って洗うと女の子にもてる薬”なんてものもあるが、ハリージュには内緒だ。求められたら泣いてしまう。
「案外、普通な物も作っているんだな……いくつかは騎士団でも使うことがある」
市場に出すのは仲介してもらっているので、ロゼは管理していない。
もしかしたら、ロゼの作った薬が彼の傷を癒やしたこともあるかもしれない。そう思うと、少し嬉しい。
「そんな薬草ばかり植わってる畑の中に、何故レタスが? レタスも薬草になるのか?」
「熱冷ましに使ったりはしますが、魔女の秘薬に使うことはあまりないです。レタスを植えてるのは、祖母の指示です。あの畑の中には、よそでは手に入らない珍しい薬草も植えられているので、『何があっても絶対に維持し続けろ』と、生前からよく言ってて」
祖母が魔女の師であったことを、ロゼはハリージュに伝えていた。
ハリージュはカップをテーブルに置くと、「そうか」と噛みしめるように呟いた。
「ご自分がいなくなられた後の、魔女殿を心配なさったんだな」
「へ?」
意味がわからずに、ロゼは聞き返す。
薬草の育て方を、ガミガミと口煩く言われたことはあったが、それがなぜ自分の心配などという話になるのかわからなかった。
「他に家族はいないのだろう?」
「はい。母は幼い頃に亡くなったらしくって、何にも覚えてないんです。父や兄弟は存在すらしてるかもわかりません」
「兄弟は知らんが、父は存在はしているだろう……」
人間の成り立ちは知っているが、本当に話題にさえ上ったことがないのだ。大木のうろの中に入っていたらいつの間にか妊娠しました、と言われても信じたくなるほどに、ロゼは父親のことを知らなかった。
「なら、御祖母様は余計に、ご自身がいなくなった後、一人になる魔女殿が心配だっただろうな。なにしろ、それほど美味そうにとる食事さえ、目も当てられないほどに適当なのだから」
「そんな言うほど酷かったですか……? レタスは食べてたんですよ。ちゃんと」
「レタスだけを食うことをちゃんとと言うかはわからんが――そのレタスを食べていたことさえも、御祖母様の計らいだろう」
「へ?」
「魔女殿のその性格を、御祖母様はよく把握されていたんだろう。薬草を育てるため、と言えば仕方なくレタスも世話するだろう? 実ったものは、食べなければ勿体無くなる」
今まで考えたこともないことだった。
祖母が亡くなった後、ロゼも一応かまどに立ったことはあるのだ。
だが、自分で作るご飯はさして美味しいと思えず、つい食事を疎かにし始めた。”お腹が空かなくなる薬”なんてものを開発し始めるくらい、食事を面倒に思っていた。
それに、畑を守るには朝早く水を撒かねばならないし、手入れのために日光を浴びる必要もある。
万が一、日が昇る頃に眠り、日が落ちる頃に起きるような、ロゼが望むままに自堕落な生き方をしていれば、薬草はすぐに枯れてしまっただろう。丁寧に育てないと、すぐに病気になってしまう種もある。
「ちゃんと起きなさい」「きちんと食べなさい」と言われたところで、果たしてきちんとしていたか、ロゼには自信がなかった。
祖母に会ったことも無いハリージュが気付けて、ずっと育ててもらった自分が気付けなかったことは恥ずかしいが、それよりも喜びに胸が詰まった。
自分は、それほど大切にされていた。
祖母の深い愛を知れたことが、ものすごく嬉しかった。
そして、祖母の愛に気付いてくれたのは、ハリージュがそういうものの考え方をするからだろうと思えた。
「……やっぱり、好きだな」
「そうだろう。もっと食え」
パンのことだと思ったのか、ハリージュが少し嬉しそうにパンを差しだす。
林檎ジャムがたっぷり塗られたパンを、ロゼが受け取る。
「美味いだろう」
そう尋ねるハリージュの目は、どことなく優しく見えた。
祖母の話を聞いて、しんみりとしてしまったロゼのことを心配しているのかもしれない。
「もっと食うか?」
「これを食べたら」
「わかった」と言いながら、ハリージュは新しいパンにもうジャムを塗り始めていた。
ロゼはもぐもぐとパンを頬張る。
「どのくらい? このくらい……けっこう耳に残るな。何が眠るまでだったか」
ハリージュがジャムを塗りながら歌ったのは、先程紅茶を淹れながらロゼが歌っていた歌だった。
「くじらです。といっても、くじらがどのくらいで眠るかは知らないんですけど……歌い終わる頃には、祖母の味をそっくりそのまま淹れ終えてるんです」
歌の中には、何をどのくらい入れるのか、どれほどすりつぶすのか、どれほど煮るのかといった、紅茶の淹れ方が全て詰まっていた。
この歌を聴いている時、一緒にぐつぐつと煮え立つ音を聞くのが、ロゼは好きだった。
「では、これも御祖母様に?」
「まさか。祖母は歌を歌ったりなんてする人じゃありませんでした」
言いながら、はたと気付いた。じゃあ誰が歌を教えてくれたのだろうか。
こんなに完璧にロゼが覚えるほど、何度も何度も歌ってくれたのは誰だったのだろうか。
「なんだ、お母上のことも、覚えてるじゃないか」
存在を知らない父や兄弟は論外。
祖母ではないなら――母しかいない。
今度こそダメだった。
浮かび上がりそうになる涙を隠すために、ロゼはぎゅっと眉根をしかめた。それを見て、ハリージュが笑う。
「その顰めっ面は、誤魔化していたのか」
表情を、真実を、ロゼはずっとこうして隠していた。
そうして生きるのは、身を守ることだった。
魔女のやることなすことすべてが真実だと、魔法を持たない人にバレるのは恐ろしいことだと刷り込まれて生きてきた。
けれどそうだった。
この人を完璧に騙すことは、もう無理なのだと思い出す。
そして、それを知っているからこそ、話し相手になりにきてくれていることも。
そうすると、もう我慢しきれなかった。
唇が震え、鼻が鳴った。
パンを咥える。
もぐもぐと、噛みしめる。
ロゼは今、途方もなく幸せだなと思った。
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