第10話
タルト・タタンを食べ終えると、すぐに食器を洗う。
ハリージュが帰宅してしまうと、絶対に汚れた食器を放置してしまう自信があるからだ。
手間が増えてはいるが、生きていく中でしなければならない最低限の営みなのだと言い聞かせて、手を動かす。
しかしこれほど頻繁にハリージュがやって来るならば、自分が使っていた食器だけでは心もとない。
現在ハリージュに食べ物を出す時は、大きさも形も違うちぐはぐな食器を並べている。
流し台の上にある吊り戸棚に、確か祖母が生きている時に使っていた食器があったはずだ。
手を伸ばすが、全く届かない。
真新しい深緑色のローブが、飛び跳ねていた水で濡れた。
一度着てしまえば、ただの布だ。何のてらいもなく着られるようになったため、このまま製薬や畑仕事もしている。この数日間で、随分と汚れが目立つようになっていた。
爪先立ちになっても全然無理そうだったので、ロゼは諦めて足場を探すことにした。
ちょうどいいサイズの木箱がないか探そうとした時、背後から声がかかる。
「どれを取りたいんだ?」
「あぁ、お客様……お気になさらず。どうぞ座っていてください」
人と関わりを持たないロゼは、当たり前のように人に優しくされることに慣れていない。
好きな相手にほんの少し優しくされただけで、きゅんとしてしまうのだ。これ以上の深みにはまりたくはない。
「どれを取りたいんだ?」
しかし相手はお貴族様だ。貴族がお客の場合、大抵はいはいと話を聞いていた方が早いことを、ロゼは今までの魔女経験で知っていた。
「……それでは、左の扉を開けていただけますか」
その最初の一歩で手間取った。無理やり物を詰め込んだ戸棚は、そう簡単に開いてはくれなかったからだ。
「退いていろ。開けた瞬間に物が落ちてきて、怪我をするかもしれん」
「いやいやいや、それならお客様が……」
「俺がそのくらいで怪我などするものか」
呆れ顔で見下ろされるが、怪我は人間なら誰だってするだろう。それにハリージュは、顔だけで言うなら大層な美丈夫だ。その美しい顔に万が一青あざでも出来てしまったら、ロゼは家中の薬を塗りたくってしまうかもしれない。
「お客様……」
「わかった、わかった。慎重に開けるから少し離れていろ」
慎重に開けるのに離れている意味とは? ロゼは分別のある魔女だったので、これ以上の問答は意固地にさせるだけだと思い、そっと下がった。
無理やり開いた戸棚からは、やはり色々なものが転がってきた。そしてその全てを、ハリージュが広い両手の平で抑えた。
「お見事です」
「あんたはもう少し、片付けを覚えた方がいい」
嘘をつけないのでロゼは無言を突き通した。
溢れてきた物を慎重におろすと、ハリージュは再びロゼに尋ねた。
「それで、どれが必要なんだ」
「はい。その壺の奥に……ああ、その小瓶には触らずに。その隣の紙袋も気をつけてください。左の奥の、その斜めの向こうの後ろの右に……」
辛抱強さのかけらもないハリージュが、しかめっ面で振り返った。
「持つぞ」
「へ?」
気付いた時には浮いていた。両脇に手を差し込まれている。
「取れ」
「へ、へい」
赤くなっていいのか、青くなっていいのか判断に迷ったロゼは、ひとまず命令に従った。
大慌てで目当ての木箱を探し出すと、こくこくこくと小刻みに首を縦に振って、ハリージュに命令を完遂したことを伝えた。
ハリージュがそっとロゼを床に下ろす。
ようやく分厚いローブ越しに感じていたハリージュのぬくもりが離れ、ロゼは心からほっとした。
「まだ肉は付かないか……」
なんていうチェックの仕方だ。人間として認識はされていても、女だとは思われてないようだ。
しかし、ロゼは魔女だ。
女として見られてようがいまいが、そんなことはどうでもいい。今はまず、この木箱を開けて皿を取り出すことが先決だ。そうだ、くそう。涙で前が見えない。
むんずと掴んで、木箱の蓋をあける。
包んでいた布をほどくと、埃一つついていない青磁の皿が並べられていた。
「あった。これです。……綺麗」
「美しい色だ。よほど腕のいい職人が作ったんだな」
「これを――」
貴方用の食器にしようと思った――そう言いそうになった自分に寒気がした。
それは、次もまた彼がお菓子を持ってくると信じている馬鹿の思想だった。そんな希望を、そんな夢を持つようになった自分に呆れた。
「どうした」
「いえ、えっと。お客様も増えてきたので、使える食器を増やしておこうかと」
ああ、だから恋は嫌だ。
なんて自分を馬鹿にさせるのだろう。ひどく惨めな気持ちだった。こんな言い訳、彼にする必要もないのに。必要以上におしゃべりをしてしまう口をぎゅっと閉じる。
ハリージュはそんなロゼを見下ろしているかと思えば、すっとフードに指をかけた。
ぱさりとフードが落ちる。「へ?」と声が裏返った。
「そういえば、顔が見えないんだが」
「い、いやいやいや! 見せないようにしてるんです!」
あまりにも突拍子も無いことに驚いて、沈んでいた気持ちも忘れ、叫んでしまった。
何してるんですか、と慌ててフードをかぶろうとした手を、掴まれる。
「見えないと言っているだろう」
「見、見せないようにしてるって言ってますよ、ね?」
「顔も見せないで客に物を売るのか」
「そうです。魔女の秘薬は、謎と秘密でできてるんです。それに、ええと、そう。防犯対策でもあるわけで……」
「なら今は必要ないだろう」
あるんです。一番、あるんです。ロゼは慌てて顔を俯けた。
そういうことを言われた時に、顔を隠さないといけない相手が、貴方なんです。
けれどそんなこと、言えるはずもない。またなぜか、自分は信頼されていると思っているハリージュの期待も、裏切りたくなかった。
もたもたしていると、またハリージュの手に力がこもった。ロゼはぎゅっとフードを掴んだまま言う。
「わかりました。では何故、私が顔を見せた方がいいのかだけ教えてください」
「何故って……俺に言ってしまった魔女の秘密というのは、みんな知っていることなのか?」
ロゼはブルブルブルと首を横に振った。
とんでもないことを言う。一生誰にも言うつもりはなかった。長年の付き合いである、ティエンにさえ言っていない。
「なら、あんたが顔を見せながら話をできる相手は、俺しかいないのだろう?」
ロゼはかたまった。
虚をつかれたせいで、半開きの口のまま、ハリージュを見上げる。
「言いたくないことが万が一顔に出ても、『嘘になるから言いたくない』と正直に言える相手は、俺しかいないのだろう?」
口をぎゅっと引きむすんだ。
そうしていなければ、変な何かが漏れてしまいそうだった。
顔を見せずに話すのは失礼だからとか、そういう理由だったらよかったのに。そうしたらロゼは、たとえフードを無くしても、それほど恐れることはなかっただろう。
それがまさか、ロゼのためとは思っていなかった。
秘密を共有する母や祖母を亡くしたロゼのために、唯一話し相手になってくれようとしているのだ。
だから最近、意味もなくここにいたのか。
偶然聞いてしまった秘密の責任を取ろうと――ロゼに優しくしようと思って。
ロゼはフードをとり、ほんの小さな苦笑を浮かべる。
「……こうして、顔を向き合わせて話をするのは随分と久しぶりなので、なにか失礼があるかもしれませんが……」
ハリージュの優しさを無碍になど、できるはずもなかった。
ロゼを見下ろしていたハリージュは、大きく頷いた。
「やはり、あんた可愛らしい顔立ちだな」
「……やっぱりやめます」
ロゼはフードを被った。深く、顎の下までひっぱる。
ときめきすぎて死ぬかと思った。
遠い何処かの世界には「リアジュウバクハツシロ」という呪文があると、いつか何かの本で読んだことがあったが、きっとこういう死に方をするのだろう。
「悪い! 最近、セクハラだと姪達にも嫌がられるんだ。もう言わない」
「いやです。もう外しません」
「魔女殿!」
クソッタレ。汚い言葉を胸の中で吐きながら、ロゼは心が静まるのを、いつまでも待ち続けた。
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