第40話

 ――コツン

 靴の先が何か硬い物に当たるような音がして、ロゼは目を覚ました。


 灯りを消した室内は真っ暗だ。

 窓からは月明かりだけが差し込んでおり、絨毯に四角く縁取られた名作を作り上げている。


 普段ならば気にもならないような小さな音だったが何故か興味を引かれ、ロゼは眠い目を擦りながら、ベッドから起き上がった。


 肌触りのよい絹のリネンから、薄紅色の髪がそっと離れる。

 ベッドのそばに揃えられていたサイドテーブルに手を置き、立ち上がる。


 そのサイドテーブルは、つい先日、ティエンがロバ三頭分も運んできた持参金――花嫁道具の一部だ。

 ハリージュの用意してくれた室内に、ティエンの選んでくれた家具がちぐはぐに並んでいる様を見るのは、ロゼは嫌いではなかった。


 サイドテーブルをさらりと撫でると、音の鳴った方へ向かう。


 音が鳴ったのは、ロゼの借りている部屋から続く、隣の部屋の扉だった。唯一鍵が閉められているその扉の前に、ロゼが立つ。

 鍵は、こちらの部屋からのみ開けられるようになっていた。施錠の役目を果たしている金具をつまむと、ロゼは静かに解錠する。


「!?」


 ドアを開けると、ハリージュがいた。


 何故かドアに背をもたらせて座っていた彼は、ロゼがドアを引いた拍子にバランスを崩し、床に肘をついている。


 お互い、墓から這い出てきた死人を見たような、ぎょっとした顔をしている。


 まさか、自分がここにいることにロゼが気付くとも、ロゼが起きているとも思っていなかったに違いない。


「ここで何を……?」

「いや――」


 立ち上がったハリージュが、言葉に詰まる。

 彼の身だしなみは一分の隙も無く整っていた。これから出勤なのだろう。出勤前に、開きもしない扉の前で、ただじっと座っていたハリージュの行動の意味が全くわからなかった。


 言葉を探していたハリージュだったが、ロゼの姿を見て即座に部屋に戻った。

 そして、一枚のキルトを持ってくると、ロゼの肩に巻く。ロゼが纏っているのは、シュミーズ一枚だったからだ。

 ロゼは有り難く受け取った。キルトからは清潔な石鹸の香りと、ハリージュの香りがする。


「いつも、こんなに遅くまで眠れていないのか?」

 先ほど質問したのはロゼだというのに、それには答えずにハリージュが質問をしてきた。

 これだからお貴族様は、と思いつつも、ロゼは頷く。


「いえ。今日はたまたま起きただけです」

「そうか」


「ハリージュさんは……私に何か用でも?」

「いや……仕事に出る前に――ああ、いや。何でも無い」


「どうしたんですか? そんなに歯切れが悪いなんて。熱でも?」

「無い」

 ハリージュはムスッとして言う。そして心底言いたくなさそうに、ぼそりと呟いた。


「――あんたがいるか、確認していたんだ」

「……透視が出来るんですか?」

「見えはしない。扉で阻まれていてもなんとなく、人がいる気配はわかる」


 そんなもの、ロゼはわかったためしがない。凄い特技があるもんだと感心しながらも、呆れる。


「いるに決まっているじゃないですか」

「いや、わかってはいるんだ……」

 またばつが悪そうに言う。いや、もしかしたら照れているのかもしれない。わかりきっている答えに、それでも不安になった己に。


「それに元々、庵が危ないからと避難してきているのですよ。ここ以外の、何処へ行っていると言うんです」


 ロゼに行く場所は、他にない。


 そのことにハリージュ時は初めて思い至ったようだ。ハッとした顔をする。


「――そう、だったな」

「そうですよ」

 ハリージュは何かを考え込むように、神妙な顔つきになった。


 眉間に皺を寄せた顔さえも美しい。美しい顔は見ていて飽きないが、ロゼは珍しくも、ハリージュの顔面以上に気になるものを見つけていた。


 好奇心を抑えきれずロゼは首を伸ばして、ハリージュの体の向こうにある彼の部屋を覗き込んだ。


 この扉がハリージュの部屋の扉に繋がっていることを、ロゼは初めて知った。

 向こう側も薄暗く、あまり全容はわからないが、できうる限りハリージュの部屋を覗き見ようとする。


 そんなロゼの様子に気がついたハリージュが、幾らかの沈黙のあとにそっと尋ねた。


「――入るか?」


 亀のように首を伸ばしているロゼに、ハリージュが尋ねた。


 勢いのままに「はい」と返事をしようとして、ロゼはハリージュを見上げる。


 冬の夜の湖畔のような静かな目をして、ハリージュはロゼを見下ろしている。

 確かにそこにあると思っていたはずの好奇心は霧散した。次にやってきたのは、怯えだった。


 何故だか返事をしたら、ロゼと彼の全てが変化してしまう気がした。


 ハリージュの誘いに乗ることが何を意味するのか、理解はして無くとも本能で察したロゼが怯む。


 知らず張り詰めていた空気がふっと緩んだ。

 ハリージュが口角を上げたのだ。


 寝起きのままのボサボサのロゼの頭にハリージュが手の平を置くと、ぐしゃぐしゃとかき混ぜた。


「ひと目、顔が見られて良かった。まだ寝ているといい」


 そう言うと、ハリージュは扉の向こうに消えていった。

 ロゼはハリージュに、何かを容赦をしてもらったことに気付いたが、それが何なのかまでは、わからなかった。


 ロゼはただキルトに包まれた姿のまま、閉まった扉を見つめることしか出来なかった。





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