第二章 魔女と謎の訪問者
第41話
湖は、ロゼが変わったくらいで涸れたりしない。
森もまた同様に、ロゼが離れたからと動物が減ることも、木の実が採れなくなることもない。
だが、ロゼにとっては違う。
ロゼからすれば、湖は大切な故郷であり、森は大事な仕事場だ。湖と森が変わってしまえば、これまでのように魔女を続けていくことは出来ない。
偉大な自然の前で、魔女一人などちっぽけなものだ。
そんなしがない魔女は、朝早くから森にいた。湖にかかっていた朝霧が、木々の隙間を吹き抜けるように散っていく。
少し前に咲き誇っていた花たちが、役目を終え、花びらを落としている。
花びらの蒔かれた森の道を、ロゼは力強い足取りで歩いていた。一歩ずつ、柔らかな腐葉土がロゼの足を吸い込もうとするために、歩くのには微かなテクニックが必要だ。
手にした籠に、落ちた花びらを詰めていく。変色の少ない綺麗なものを選り分ける。もちろん、これも薬の材料だ。
腰をかがめて花びらを拾い続けるのは中々の重労働である。すぐにロゼの腰が悲鳴を上げ始める。痛む腰を擦りながら、ロゼは「んー」っと背伸びをした。
その時、森を流れる風に乗って、微かな声が聞こえた。
獣の鳴き声だろうかと、ローブを脱ぎ、手で耳を起こし、ロゼは慎重に辺りを見渡す。
どうやら音のリズムから察するに、人間のようだった。声の方に足を進めていくと、段々とその音が明瞭になっていく。
「誰か……いないかしら! 誰かー!」
随分と切羽詰まった声だった。
だが、かなりくぐもっていて、どこから声がするのかわからない。
ロゼは用心深く当たりを見渡しながら声の主を探し――見つけた。
森の中に、ぽっかりと空いた大きな穴から、声がしていたのだ。獣を狩猟する際に使う、落とし穴だ。
深く積もっていた落ち葉のせいでわかりにくくなっていたのか、その穴に落ちてしまっているようだ。もう使っていない落とし穴を、誰かが埋め忘れたのだろう。
――古い記憶を辿ると祖母が使っていたような気がするが、ロゼの勘違いだろう。そうに違いない。
「誰か……そこにおりますの?」
落ち葉を踏むロゼの足音が聞こえたのか、穴の中から声がする。
ロゼがひょこりと穴を覗く。
元々森が薄暗いため、穴の中は真っ暗で、声の主がどんな見た目をしているのかはわからない。だがその声を聞く限り、まだ幼い少女のようだった。
「助かりましたわ……」
これまで心細げだった声が、瞬時に明るくなる。
落ちた獣が上ってこられぬよう、穴は傾斜がきつめに掘られている。幼い少女が自力で這い上るのは無理だろう。
それに万が一 ――いや億が一 ――祖母が埋め忘れた穴ならば、自分の責任でもあるかもしれない。
ローブを脱いだロゼは、仕方なく落とし穴の縁に手をつく。自分が落ちないように気をつけながら、脱いだローブをぶら下げた。
ロープが手元にないために、ローブで代用するしかない。少女はロゼの意図を察し、ローブをぎゅっと掴んだ。
「感謝します! 引き上げてくださる?」
「いえ、引っ張るだけの腕力はありませんから、自力で上ってきてください」
「自力って……
「壁を蹴って、足を引っかけるところを作ってはいかがでしょうか」
ロゼの提案に少女は絶句したようだが、意を決して壁を蹴り始めた。あまり蹴ると、柔らかい森の土の性質上穴が崩れ落ちないか心配になるが、そんなことを言って不安にさせても仕方が無い。
少女は悪戦苦闘しながら、なんとか穴から這い出てきた。ずっとローブで彼女を支え続けていたロゼも、もうへとへとだった。
這い上がってきた少女と共に、しばらく森の上に倒れ込み、ぜえはあと息を整える。
「何故……こんなところに穴が……何故私がこんな目に……」
穴から出られて安堵したのか、その声にはこれまでにない悔しさが滲んでいた。
少女の身につけている立派な外套や靴は、泥に塗れてデロデロだ。潰れた虫の体液や、木の根の汁の汚れは、洗っても落ちないに違いない。
髪にも泥がへばりつき、元の色もわからないほどだった。ところどころ泥が乾き、粉をふいたような髪はぐしゃぐしゃで、結い直す必要がある。
ロゼはぼんやりと少女を見つめた。
まん丸の大きな目に、ふっくらとした頬。一つ一つが丁寧に作り込まれた少女の顔の造作は、完璧に整っていた。
泥まみれになっていても、少女の美しさが伝わってくることに衝撃を受ける。
「あぁっ……せっかく用意しましたのにっ……!」
穴から這い上がる時にも決して手放さなかったらしい上等な布に包まれたぺしゃんこの品を見て、少女がへなへなと地面にひれ伏す。
話し方から近所の子ではないと思っていたが、もしかしたら貴族かもしれない。
貴族だとすれば、客の連れだろう。
こんな森の奥深くまで来る貴族には、全員もれなく、魔女に用事があった。
「……こんな格好ではとても……」
少女は気落ちした様子で、自分の体をしげしげと見下ろして触っている。その汚れようでは、確実に親に叱られるのは必至だ。
叱られることを恐れているのだろう。ことさら落ち込んだ具合で、少女は異常を確認するべく、自分の体を触っている。
体のとある一点を少女の指先が掠めた時、少女がか細い悲鳴を上げる。
「あ、ありませんわっ!」
今にもぶっ倒れてしまいそうな悲痛な声に、ロゼはギョッとした。
少女は自らの体をあちこち触って、目的のものを探している。
「そんな……まさか……」
少女は立派な外套が汚れることも厭わずに森の地面に膝をつくと、先ほどの穴を精一杯首を伸ばして覗き込んだ。
折角引き上げたのに、落ちられては堪らないと、ロゼは少女の背後に立つ。
「信じられませんわ……あんなところに落ちてるなんて……」
穴の中を覗きながら、少女が呆然と呟いた。何が落ちているのだろうとロゼも後ろから覗き込むが、よくわからない。
更に目を凝らしていると、微かに木漏れ日に反射する小さな光が見えた気がした。
困り切った顔をした少女が振り向く。
「貴方、取ってきてくださらない?」
この世のどんな人間だって、敬礼と共に命令を遂行したくなるほど、少女の顔は愛らしく、その懇願はか細かった。
しかしロゼは、魔女である。
「え、嫌です」
にべもないロゼの返事に、少女が驚いた。
まさか断られるとは思っていなかったようだ。
「私、あれがないと、とても困るのよ」
「私も穴から出られなくなるのは困ります」
「礼なら弾むわ」
「いえ、無理です」
「そんな……」
少女の若草色の瞳に、じわりと涙が滲んだ。
泣くのだろうか? ロゼはちょびっと後退した。
人が泣く場面を見るのは、もしかしたら初めてかも知れない。
心なしか、体がそわそわとした。
もし少女に泣かれてしまったらどうしようと、心配しているようで驚いた。
誰が泣こうと怒ろうと、魔女のロゼには関係なかったはずなのに。
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