第42話

 だが、幸いなことにロゼの杞憂に済んだ。


 少女はぐっと顎を引き、瞼を閉じる。

 そして次に目を開いた時にはもう、涙の欠片は見当たらなかった。


「日を改めることにします」


 決意の中に濃い後悔の色を残しながら、それでも少女は未練を断ち切るように穴から視線を剥がしてロゼを見た。


「貴方には迷惑をかけました。礼をしなければなりませんわね。名は何と言うんですの?」


「”湖の善き魔女”です」


 ロゼが名乗ると、懐から礼を取り出そうとしていた少女は極限まで目を見開き、顔を引きつらせた。


「なっ――!」


 少女の顔が驚愕に染まる。


 見知らぬ女には流暢な挨拶が出来ても、魔女相手とわかれば恐ろしくて身が竦んだのだろう。貴族とは言え小さな少女に、分別を期待はしない。


「ま、ままま、ま、魔女……!」


 少女の手から、ポトリと革袋が落ちる。

 しかし少女は落としたことに気付いていないようだ。口元を隠す両手はわなわなと震え、瞳は再び潤んでいる。


 最近こうした反応が続くため、ロゼは少し落ち込んだ。ハリージュに迎え入れられたからといって、全世界の誰もに歓迎されたわけでは無いと、わかっていたはずなのに。


 ロゼは魔女の仕事に誇りを持っているが、人にとって魔女は脅威であるのだ。それをきちんと、思い出さねばならない。


 ロゼはすっと身を引いた。

 すると、少女から「あっ」と声がする。


 どうかしたのかと首を傾げるが、「っほん」と意味のわからない言葉が少女から漏れるだけだ。


 穴から助けたのだから、もう用は済んだろう。これ以上傍にいてもお互いにいいことは無いと感じたロゼは、汚れたローブを手に取り、パンパンと土や泥をはたき落とした。

 ローブを羽織り、この場を去ろうとすると、また「あっ、こっ、わっ」と意味のわからない声が少女から聞こえる。


 何故か呼び止められている気がしたロゼは、訝しみつつ尋ねた。


「いかがしました」

「あっ、あのっ、まさか、ほんもっ……こんなところでっ会え、あのっ」

「……?」

「あっ、そのっあっ……。――ファンです!」

「……ファン」


 ファン?


 ロゼは心で繰り返した。


 言葉の意味は知っているが、それが彼女の意図するものと同じか自信が無かった。ファンとはかなり、好意的な相手に使う言葉のはずだからだ。


「あのっ、まさか、庵に伺う前にお会い出来るなんっ……んん……っ!! なんて思っておらず」


 きょとんとするロゼの前で少女はハンカチを取り出し、丹念に自分の手を拭き始めた。唖然と見守るロゼの前で、少女は顔を真っ赤にして、必死に言葉を紡いでいる。


「わたっ、私っ、小さな頃からずっと、憧れていて」

「憧れ」


「ま、あま、まっ、魔女様にっ」

「魔女様」


「ああ、こんな格好でっ……ほ、本当に、出直すつもりだったんですっ……手土産もこんな有様で……」

「手土産」


「お、お願いします。あの、あの、あく、握手してくださいっ!」


 両手が勢いよく差し出される。


「……握手」


 その手はかわいそうなほどに震えていて、ロゼはよくわからないままに手を握った。


「も、もう一生手を洗いません~~!!」


 少女の黄緑色の瞳から、ポロリと涙が零れた。一度零れると制御がきかなくなってしまったらしく、肩を震わせながら泣いている。


 泣かれたらどうしようと思っていたが、今は少女を慮るほどの余裕はなかった。

 感動に打ちひしがれる少女以上に、ロゼは混乱していた。


 これまでの人生で、過剰にどもられてしまったことも、握手を求められたことも、握手した手をもう洗わないと言われたこともなかったからだ。


 何か自分の想像の範疇を超えることが起きている。

 ロゼは未知の感覚を、ひしひしと抱いていた。


「……何か、私に用事があったんでしょうか?」


 客の連れだとばかり思っていたが、誰も探しに来ない上、この様子では、もしかしたら彼女自身が客なのかもしれない。

 何故か不安な気持ちになりながらロゼが尋ねると、少女は背伸びをするように、つま先からピンと背筋を伸ばした。


「ほ、本日折り入って伺ったのは……他でもありません……」


 荒れ狂う荒波を何とか胸の内で抑えようとしているかのごとく、少女が胸に手を当てる。大きな深呼吸の後、森の木々が震えるほどの大声で一息に言い切った。


「わ、私を弟子にしてください!」


 大きな声に驚いた小鳥たちが、パサパサと飛んでいく。その様を見上げながら、ロゼは答えた。


「無理です」


「そ、そうですよね……突然やってきて、こんな格好で……手土産も損ない……見ていただこうと魔女様のお薬を真似て作ってきたものさえも穴に落としてしまったような私が……偉大な魔女様の弟子にしていただこうなんて、虫がいい話……」


「いえ、そうでは無く――魔女でないなら、魔女にはなれません。魔女になれないものを、弟子にとるつもりはありません」


 魔女は血統で受け継ぐものだ。

 人が生めば人が生まれ、魔女が生めば魔女が生まれる。


 自分で言っていて、ロゼはふと口を止めた。もしかしたら、彼女は本当に魔女から生まれたものかもしれないと思ったのだ。


 もしそうであれば、祖母以外初めて見る魔女である。


 胸の興奮を抑えながら、ロゼは懸命に真顔を保ちつつ尋ねた。


「――それとも、貴方は魔女の血筋なのですか?」

「……い、いえ……私は、その……」


 少女は言い難そうに言葉を濁した。自分の血筋を伝えることで、一縷の望みが消えてしまうとでも言うかのような悲愴な顔だった。


 魔女ではないのか。


 心持ち、がっかりとした自分がいたことに、ロゼは気付かないふりをした。


 しかし、穴に落としたのは薬らしい。ロゼは落とし穴を見た。本物の”魔女の秘薬”であるはずがないが、弟子にしてもらおうために、既に完成させたものを持ってくるとは中々いい心がけだ。


 本当に弟子に出来ればよかったのだが、なりたいからとなれるものではないし、なりたくないからとならないで済むものでもない。そうして魔女は曖昧に世界を漂っている。


「ここまではどうやって?」

「あ……付き添いのものに……」

「では、その方はどちらに?」

「森の入り口で、待っていますわ」

「なるほど、そこまではお一人で戻れますね?」

 確認すると、少女は僅かに頷いた。


「では、私はこれで……魔女に用があるのでしたら、ご両親にお願いして”魔女の秘薬”を買ってもらうことをお勧めします」


 ロゼが深くフードを被る。

 そしてぺこりと頭を下げて、その場を立ち去った。



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