第二章 魔女には危険な林檎の実

第7話


 入道雲が青い空に聳え立っている。

 季節は、もうすっかりと夏だ。どれだけ緑が生い茂ろうとも、湖の水は冷たい。


 薄紅色の髪が細波に揺れる。ロゼの体に絡みつくシュミーズが、ゆらゆらと湖面に広がった。


 ずっと面倒がっていた水浴びを、ここ最近頻繁にするようになった。暑くなったからに違いない。別に他意は無い。


 ティエンは先日来たばかりだから、まだしばらく来ないだろうと思われた。

 それに万が一来られたところで、ティエンに水浴びをしている姿を見られても、ロゼは別に恥ずかしくは無かった。


 ハリージュには、ひと月先まで用事が無いことを伝えている。

 用もないのにこんなところまで来る人ではないし、今は昼だ。ハリージュが昼に魔女の庵を訪れることは無い。


 自分で告げた一ヶ月という期間は、長いようにも、短いようにも感じた。


 会えなくて寂しい気持ちと、それだけ長くハリージュの記憶に留めて貰えるという気持ち。

 どちらも素直に心を蝕み、ロゼを疲弊させた。


 自分の感情をコントロールするのは得意な方だったが、恋心がこれほど御しがたいものだとは知らなかった。


 ただ、ハリージュに伝えたひと月というのは、実際に素材を加工するのに必要な期間でもあった。


 真実の期間を伝えていた理由はひとえに、魔女は嘘をつくことが出来ないからだ。


 人では作れないほどの効力を持つ薬を、魔女だけが作れるのには、理由がある。


 魔法という嘘を使う魔女は、魔法以外の嘘を使えない。


 そのために、人とは離れて、別の生き物として暮らしてきた。

 愛想が無いのも、不気味なのも、嘘をつけないことを見破られないための手段である。


 ロゼも歴代の魔女に倣い、嘘をつけないという不利を悟らせないよう、日頃から細心の注意を払って生きていた。


 人との接触は最小限に抑え、表情や言葉にも気を配った。

 言動で真実を見抜かれないように、大きなローブも手放せない。

 とはいえ、嘘をつかなければいいだけなので、真実を隠したり、話を逸らしたりすることはできる。

 幸運なことに、ロゼはそういったことが苦手では無かった。


 だからこれまでそうして、たった一人で生き延びてきた。


「シュミーズも洗おうかな……」

 この天気だから、あと数時間も干せばからっと乾くだろう。


 洗ったばかりのローブとドレスが、木と木の間に張ったロープにぶら下がっている。

 その隙間にシュミーズも加えるために、ロゼは湖から上がった。


 水に濡れたことを嫌がる犬のように、体を震わせる。


 背中で結んでいた紐を解いて、シュミーズを足下に落とす。

 替えの服をあのローブ以外に持っていないので、洗濯物を干している間は裸でいる他ない。


 水を吸ったシュミーズは随分と重たい。

 シュミーズを何度か折りたたみ、ぎゅっと水を絞った。

 絞るそばから、ロゼの髪からぽたぽたとしたたり落ちた雫が、手元のシュミーズに広がっていく。


「んああ、もう……」

 胸まで伸びている薄紅色の髪が、べったりと肌に纏わり付く。


 色々面倒になって、シュミーズを広げてバサッと振った。ピチャピチャと音を奏でて、雫が湖に戻っていく。


 面白くなって、ロゼはそれを夢中になって繰り返した。


 だから、完全に気を抜いていたのだ。


 チリンと来客を伝える音が家の中で鳴ったのが聞こえても、どうせまたどや顔の鹿がこちらを見ているのだろうと、そんな風に思って顔を向けた。


 そこに立っていた男と目が合った時に、あまりにも衝撃で、息さえできなかった。


 そこにいたのは、ハリージュだった。


 ロゼはシュミーズを広げたままかたまっていた。


 対岸の森にいるハリージュも、こちらを見たまま唖然としてかたまっていた。


 二人ともしばらくの間、息を止めたまま見つめ合っていた。


 ピチチチ……。


 森の小鳥が麗しい歌声を披露する。

 先に視線を剥がしたのはハリージュだった。


「すまない!」


 ハリージュは勢いよく背を向けた。

 声色から、彼もいつになく動揺していることがわかった。


「はははは……」


 ロゼは乾いた笑みを漏らす。きっと顔は真っ赤だろう。ばくばくと鳴る心臓が痛い。


 濡れたシュミーズを適当にロープにかけると、庵の中に飛び込んだ。

 真っ赤な顔を両手で覆い、ずるずるとしゃがみ込む。足に力が入らない。


 見られた? 見られた。見られた!


 この青白い肌を、コルセットでしめてもいないだらしのない姿を。

 ティエンや他の客なら、見られても一切気にしないのに、彼に見られることは耐えられない羞恥を覚えた。


 まさか、来るなんて思ってもいなかった。ひと月後と伝えていたし、今は昼だ。一体何の用があって、こんなところまで来たのか。


 脳みそが沸騰しそうだったが、ハリージュが待っているのだ。いつまでもこうしているわけにはいかない。


 震える足で必死に立ち上がると、ロゼはクローゼットを広げた。

 そして意を決する暇もなく、ティエンに贈られたローブを素肌に羽織った。

 下にシュミーズもドレスも無いのは、心細いことこの上ない。


 水瓶の中を覗く。そこには、目を潤ませ、頬を真っ赤に上気させ、顔を緩ませたただの女がいた。


 ロゼはパンッと頬をぶった。

 もう片方も、できる限り思いっきり。

 両の頬がヒリヒリとするが、おかげで少し落ち着いた。


 玄関を開け、対岸に声を掛ける。

「お待たせ致しました。どうぞこちらへ」


 律儀にも、声を掛けるまでずっと後ろを向いていたらしいハリージュは、緊張した面持ちでこちらを振り返った。

 向こう岸まではそれほど距離が遠いわけでもないので、ばっちりと表情まで確認できる。


 ハリージュの方も落ち着いたようだ。少なくとも、表面上はロゼよりも落ち着いて見える。


 庶民に身をやつしていても、優美な振る舞いまでは隠せない。明るい空の下で見る彼は、いつも以上に輝いて見えた。


 ということは、ロゼのあられもない姿もしっかりと見えていたというわけで。


 脳内がにわかに騒ぎ出した。

 小舟を漕いでやってきたハリージュが、桟橋の先にある鉄杭に係船索を繋ぐ。しっかりと舟を固定した事を確認すると、ハリージュがこちらを振り向いた。


「先ほどは大変失礼した」

 彼は全くなにも悪くないのに、深い後悔を抱いていることがその眉間の皺でわかった。


 見ていられなくて視線を下げると、深い森を写したような色のローブが目に入った。


 このローブの下は、裸だ。


 自分は今、とんでもない姿で彼の目の前に立っている。


 自覚すると、一瞬で脳みそが茹であがった。


「い、いいえ。私の方こそ、まさかハリージュ様がいらっしゃるとは思ってもいなくて」


「……私が誰か、知っているのか」


 ロゼの顔が引きつった。

 心の中で呼んでいた客の呼び名を口に出すなんて、普段ならばあり得ないミスだった。


 ハリージュの声はかたい。

 先ほどまでの申し訳なさそうな表情は一変して、騎士の顔になっている。


 ロゼは自分の失態に唇を噛んだ。

 彼からはまだ一度も、名前を聞いていない。

 それを重々承知していたはずなのに、つい答えてしまった。

 思っていた以上に動揺が続いているようだ。ロゼは正気に戻るよう、心の中で自分に祈った。


「ええ、はい。そうです」

「いつから」

「……」


 また口が滑りそうでロゼは俯いた。こんな自分は初めてで、困惑する。


「答えてくれ」

 しかし、騎士として接するハリージュを誤魔化せるはずも無く、ロゼは口を開いた。

 話を逸らす余裕もない今、真実しか話せないのに。


「……四年前」

「……そんなに前から?」

「あの、ご容赦ください」


 ああ、馬鹿。とまれ。

 ロゼは自分の口に魔法をかけたかった。

 だが、真実しか言えない口が、なんとかこの場を切り抜けようと、次から次に言葉を放っていく。


「お客様の情報は決して誰にも漏らしません。私、今、とても普通じゃ無い状況なんです。これ以上質問を続けられたら、何もかも洗いざらいに話しちゃいます」


 緊張しすぎて、酸素が足りない。頭がくらくらする。

 言葉がとまらない。


「は? どういうことだ」

 ハリージュは訝しんでロゼを見た。


 ロゼはハリージュの視線を受け止め、また混乱した。


 だってこの布の下は、裸なのだ。


「ま、魔女は、魔女は魔法を使う代償に、嘘をつけないんです!」


 ダメだ。絶対に明かしてはならない、魔女の秘密まで告げてしまった。

 ロゼは後ろを向いて、ガンガンと家の壁に額を打ち付ける。気を静める方法が、他に思い浮かばない。


「お、おい」

 詰問口調から一転、突然のロゼの奇行にハリージュはぽかんとしている。


「おねがいします、本当に、ごめんなさい」

 頭突きを止めて、息も絶え絶えに告げた。

 何度も打ち付けた額は真っ赤になり、すり傷を作っていた。


 これ以上ハリージュに何か聞かれたら、ロゼは何もかも、余すことなく、洗いざらいゲロってしまうだろう。それだけはいけない。


 他の魔女には悪いが、魔女の弱点を知られたことはこの際仕方が無い。


 万が、いや、億が一ハリージュが言いふらした場合は、申し訳ないが、己の身は己で守って貰おう。魔女ならば、それぐらいできるはずだ。きっとできる。そう信じている。


 だからロゼは、魔女の秘密を知られるよりも、彼に恋をしていることを知られるほうが怖かった。


 貴族でも、美人でも、村娘でさえない、たかだか魔女が――お天道様が光照らす美しく強く、気高い彼に恋をしている惨めさを知られるぐらいなら、死んだ方がましだった。


「そうだ……」


 あまりにも当たり前なことすぎて忘れていたが、ロゼは魔女だ。

 魔女は、そういった毒薬こそ専門分野である。


 ロゼは目を血走らせると、庵の中に駆け込んだ。

 棚に並べられている小瓶を漁る。ガラスの小瓶同士がぶつかり合い、ガチャガチャと高い音が鳴った。


 目当ての薬を手に取る。

 体の大きな牛だって一瞬でのしてしまう薬だ。

 そのまま小瓶の蓋を開けようと力を込めたロゼを、ハリージュが後ろから抱きしめた。


「なにをしているんだ!」

 抱擁というよりも、取り押さえられていると言った方が正確だったに違いない。ハリージュは被疑者から凶器を取り上げるかのように素早くロゼから小瓶を奪った。


 勢い余って、ロゼが床に倒れる。


 拍子にローブがはだけ、太股まで全開になった。大慌てで姿勢を正す。


「これは、痴女ではなく、私は魔女で、そう。代金はほとんど次の製薬の材料代に消えるし、私は、あまりにも服に無頓着で、だから、替えの服が」


「わかった、待て。すまなかった。本当に。魔女殿が見かけよりも随分と動転していることは、よくわかった」


 ハリージュが言う。

 なだめるような、若干呆れているような顔だった。




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