第6話


 次にハリージュが魔女の庵を訪れたのは、やはり空が薄暗くなってからだった。

 空に昇る月は、猫の爪のように欠けている。

 月の明かりが心細いかわりに、星の光は煌々としていた。薄い雲が夜風に流れ、森に陰陽を作り出す。

 そんな闇に紛れるようにして、ハリージュは密かに森を抜けてきた。


 チリンと来客を告げる鈴が鳴り、そっとロゼが窓の向こうを覗く。

 桟橋にはほのかにランタンの火が灯っていた。


 待ち望んでいた人影が見え、にわかに胸が苦しくなる。


 灯りは人魂のようにゆらゆらと揺れながら、こちらへ来る。

 ロゼはまるで、卵をとるために侵入者が入ってきた鶏小屋の雌鶏のように落ち着きを無くした。


 クローゼットを開ける。

 中には、先日ティエンが贈ってくれた、ビリジアンブルーのローブがかけられている。


 華美さは抑えているが、同色の絹糸で裾に刺繍を施してくれたりと、丁寧な作りだ。ティエンへの感謝の気持ちは絶えないが、ロゼはまだ人前でこのローブを着たことがなかった。


 いざ冷静になってみると「貴方が来るから新調しました」と言わんばかりのローブに思えたからだ。


 結局、ローブの手触りを楽しんだ後、ため息と一緒にクローゼットの奥に再びしまい込む。


 頬紅と口紅は、ティエンには申し訳ないが、まだ手に取る勇気さえない。

 ハリージュに、自分のことを覚えていて欲しいと願ってはいる。

 だがそれは、不慣れな化粧を頑張り、色めき立っている間抜けな魔女のことではない。


 家の隣で、カタンと音が鳴った。

 小舟がついたのだろう。


 ほつれだけはしっかりと補修した古いローブの裾を、パタパタとはたいて埃や粉を落とす。

 水瓶に張った水を覗き込み、両頬を強くつねって血色をよくすると、すり足で玄関の前にスタンバった。


 緊張しすぎて酷い顔になっていると思ったロゼは、心の中で数を数えはじめた。

 六まで数えた時に、扉の前に人が立ったのを感じる。


 七、八、九……。


 数を数えているのか、鳴り響く自分の心臓の音を数えているのかわからなくなった頃、コンとノッカーが鳴った。

 ロゼは一つ息をゆっくりと吸うと、ドアを開ける。

 ドアベルがカラロンと音を立てる。


「いらっしゃいませ。お願いしていた品は入手できましたか?」


 声は震えていないだろうか。顔は笑みをたたえていないだろうか。ロゼは細心の注意を払いながら、客を見上げる。


 ハリージュは背が高く、ロゼが顔を見ようとすると随分首をのけぞらせねばならない。やはり、いつ見ても顔がいい。ロゼは拝みたくなった。


 棒から外したランタンを渡されたので、いつものように暖炉の上に置く。

 小さな古びたランプと、都会的なランタンが並んでいるのを見るだけで、頬を引き締めねばならない。


「ああ、確認してくれ」

 両手でロゼが受け取ると、ハリージュは椅子を引いてどかりと座った。

 勝手に座ってくれる客は助かる。中には、椅子を引いてやらないと座らない客もいる。

 別に座って欲しいわけでは無いので、引くことはないのだが。


 ハリージュが大きな息をつく。どこかイライラとしているように見えたので、ロゼはそっと尋ねた。


「お疲れですか? 精のつく薬もありますよ」

「必要ない」

 にべもない。ハリージュの顔には、薄暗い室内でもはっきりわかるほどに「胡散臭い」と書かれていた。


 どうやら、魔女の秘薬を信じてはいないようだ。

 ではなぜ、惚れ薬を?


 その矛盾には、利口にも気づかないふりをした。彼が惚れ薬を求める理由なら、もう十分、嫌と言うほどに、考え尽くしたからだ。


 やっぱり、紅を塗らなくて良かった。


 そんなことをしょんぼり考えながら、大釜を横切って作業スペースへと移動する。


 ロゼは収納棚の扉を開けようとしたが、何かが引っかかっていて開かない。ハリージュに渡された素材を作業台の上に置き、両手で扉を掴むと力任せに押した。

 ガコンッバリンと、扉の奥で何かが壊れた音がするが、聞かなかったことにする。


 視線を感じて後ろを振り向くと、ハリージュが信じられないものを見る目でこちらを見ている。


「今、何か壊れなかったか?」

 ロゼは返事をしなかった。それについては、なんと答えても嘘になってしまいそうだったからだ。


「……少しは片付けられないのか?」


「残念ながら、自動的に室内が片付く魔法というのは無くて」


「両の手を使えばいいだろう……」


 呆れ顔でこちらを見るハリージュに、肩をすくめてみせる。

 この両手は魔法をかけることは出来ても、部屋を片付けることはできないのだ。だって魔女だから。誰がなんと言おうと、だって、魔女だから。


 会話は終わったと判断して、ハリージュの持ってきた物を確認する。

 頼んでいた物をきちんと持ってきてくれているようだ。このまま作業を始めようとすると、また話しかけられた。


「おい。これは、何だ?」


「え? ああ、数日前のレタスですね」


 明らかにドン引きしたハリージュが持っていたのは、しおれたレタスが載った皿だった。

 調合の合間に食べていたのだが、手が離せなくなって忘れ去ってしまっていた物だ。端の部分は変色しきっていて、さすがのロゼも、もう食べようとは思えない。


「……魔女殿はいつもレタスばかり食べているが、こだわりでも?」


「いいえ。庭の畑に植わっている野菜がレタスだけなんです。調理しないでも食べられますし」


「は?」

 遅れてもう一度、「は?」と言われた。


「レタスしか、食べてないのか?」


「街に出た時なんかは違うものも食べますけど……まぁ基本的には」


 どうしたと言うのだろう。魔女の食生活に興味でもあるのだろうか。

 今度はロゼが若干引きながら頷くと、ハリージュはおもむろに立ち上がり、大釜を横切りこちらに近づいてきた。


 驚いたのはロゼだ。目を白黒しているうちに、腕を取られた。

 あまりにも素早すぎて、動きさえ見えなかった。さすが超スーパーエリートの騎士様だが、出来ればもう少しご容赦いただきたい。


「……鶏の脚の方が、まだもう少し肉がついているぞ」

「そんな馬鹿な……」


 手首を掴まれ、まじまじとハリージュに見られている。毛穴という毛穴から汗が噴き出そうだった。この男、なんと言っても顔がいい。今夜だけで何度思ったかしれないが、本当に顔がいい。


 ロゼの四倍はありそうな質量と長さの睫毛は、瞬きの度にバサバサと音を立てそうなほどだ。

 顔面兵器との至近距離に我慢しきれずに、ロゼが顔を逸らす。


 ハリージュは、ようやくロゼが部下ではないことを思い出してくれたようだ。「すまない」と言って手を離す。


「いえ」

 一言返すのが、やっとだった。


 騒ぎたてる胸をローブの中で押さえた。信じられないほどに暴れ狂っている。

 自力で落ち着きを取り戻すと、威厳のある魔女のような声で伝えた。


「ひとまず、受け取った材料で製薬を進めます。今からの工程は時間がかかりますので、またひと月後にお越しください」


「また時間がかかるのか……」


 頭上から聞こえるげんなりとした声に、ロゼは事務的に頭を下げた。


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