第8話
ロゼの持っていた毒薬を、ハリージュが作業台の上に置く。
つけていた手袋を外しポケットに差し込んだハリージュが、よろけたまま床にしゃがみこんでいるロゼに手を差し伸べた。
その手を見たロゼはかたまる。
手を差し伸べられるなんて、どのくらいぶりだろうか。
きっと祖母との時間の中にはあったのだろうが、昔のことすぎてもう覚えていない。
ハリージュの手を見たままかたまっているロゼを、彼は責めなかった。
それどころか優しくロゼの肩を持ち抱き起こすと、まるで貴婦人に対するかのように優しくエスコートして、椅子に座らせた。
なにもかもについて行けずに目を白黒させているロゼの前に、ハリージュが片膝をつく。
彼が、あのハリージュ・アズムが、ロゼが四年間片思いをしていた相手が、たかが一人の魔女の前に膝をついている。
ロゼは更に目眩を感じた。
「魔女殿にとって、死を選ぶほどの秘密を暴いてしまった事を詫びよう。もちろん先ほどの事は俺の心の内に秘める。決して他言することはない。騎士として誓う。信じてほしい」
ロゼはただ、こくこくこくと、馬鹿みたいに首を縦に振ることしか出来なかった。
ローブの前をつなぎ合わせるように、ぎゅっと両手で握りしめる。
「なぜ私が、毒薬を煽ろうとしていることがわかったのですか」
「何の薬かはわからなかったが、あんたの目には見覚えがあった。追い詰められた容疑者っていうのは、大抵ああいう顔をして逃げる。間に合ってよかった」
ハリージュは、安堵するかのように大きなため息を吐いた。
魔女一人の命も大事にするハリージュに、またのぼせ上がりそうだった。
テンパったまま真顔で凝視していると、ハリージュが苦笑して立ち上がる。そして一度玄関から外に出たかと思うと、手に籠を持って帰ってきた。
「間に合わなければ、俺一人でこれを全て食べなければならないところだった」
ハリージュが持っていたのは籠いっぱいのパンだった。
それも、見るからに柔らかそうなパンだ。
「ろくな物を食べていなかっただろう。あんたは……あー、若い女なんだから。もう少し肉を付ける必要がある。とくに、薬を扱っているんだ。人より危険がつきものなのに、体調を崩してもその肉付きじゃ生き残れんぞ」
まさか、そのために、昼だというのにわざわざ? ロゼは信じられない思いで、パンとハリージュを見比べた。
「……ありがとうございます」
心が震える。胸が苦しい。
この気持ちをなんと表現するのか、ロゼにはわからない。
胸がいっぱいで、息ができないほどに心が乱れていて、縋って泣きつきたくなった。
心配された。
それは、ロゼの事を一瞬でも、彼が考えてくれたということ。
ロゼも傍にいないのに、街でパンを見て――ロゼに買ってやろうと思ってくれたということ。
あぁ、これは「喜び」だ。
ロゼは知った。
好きな人が自分を思ってやってくれた行動が、たまらなく嬉しいのだ。
彼の記憶に残るだろうか。レタスばかりを食べていた変な魔女がいたな……と。
次にレタスを見た時に、一度だけでも思い出してくれたら、もうロゼに望むことはない。
「美味しそうですね」
籠を受け取ると、まだほんのりと温かいことがわかった。
祖母が生きていた頃や、街に出た時にパンは食べたことがある。しかし、こんなにも柔らかそうなパンは、見るのも初めてだった。
胸と言葉が詰まり、涙が滲みそうになるロゼとは反対に、ハリージュは眉根を寄せた。
「待て。そこで食う気か」
「へ? そうですけど」
膝の上に籠を置き、パンを手に取ろうとしたロゼをハリージュが止める。
「まずは、このテーブルの上を片付けろ」
彼が指さしたテーブルには、ぐっちゃぐちゃのごったごたに荷物が積まれていた。
いつのものかわからないレタスも、また放置されている。
だらしのない自分の生活スペースを見て、なんだかほっとした。
ようやくいつもの自分を少し取り戻せた気がする。
「……これだからお貴族様は」
「聞こえているぞ」
「聞かせているんです」
どうにかこうにかテーブルの上を片付けると、ハリージュがテーブルクロスを広げた。なんとこの騎士、クロスまで持参していたのだ。
この家のどこかに埋もれているクロスが、清潔なはずがないと推測したのだろう。悔しいが、当たっている。
アイロンのかけられた赤チェックのテーブルクロスは、立派だが素朴で、木造のロゼの家にもしっくりときた。
あたたかみのあるテーブルセットに、小窓から差し込む光が当たる。
「ブレッドナイフは――」
「ただの包丁でよければ」
「許そう」
寛大なお言葉に感謝をのべ、作業台から一番綺麗な包丁を選ぶ。
「バターも買ってきた」
「スプーンなら製薬用のが……」
小さなまな板と木のスプーンも持ってくると、椅子に座る。
目の前には、四年間も片思いをしていたハリージュが座っている。
幻じゃ無いか確認するために三回瞬きをしたが、消えなかった。
こんな日が来るなんて四年前には――いや、昨日でさえ思っていなかった。
「珍しいバターですね」
「林檎のバターらしい。パンに塗ると美味いと聞いた」
「へえ……林檎は好きなので嬉しいです」
小瓶の中には、白くまったりとしたバターが入っていた。ロゼが調薬に使うものよりもずっと、とろとろしている。
ロゼが物珍しそうにジャムの瓶を見つめていると、ハリージュがパンを切り分けた。
薄く切ったブレッドの上に、木のスプーンでたっぷりと林檎バターを塗る。
バターの表面は果実の名残を見せるようにざらざらとしてみずみずしく、ロゼは思わずゴクリと生唾を飲み込んだ。
「ほら」
「ありがとうございます」
皿に置かれたパンを両手で持つ。
思っていた数倍、パンが柔らかかった。
スープに漬けて食べる堅パンしか食べたことがなかったため、思わず取りこぼしそうになったほどだ。
林檎バターがきらきらと輝いている。鼻を、甘い林檎の香りがくすぐる。
思い切って、ぱくりと咥えた。
「!!」
驚いて目を見開く。
続けざまにもう一口、ぱくっと咥えた。
「!!」
二口目でさえ衝撃だった。
それほどに美味しかった。
口の中が、柔らかくふわふわとしたパンでいっぱいになる。
柔らかいのに噛み応えがある。こんな不思議な食感を、ロゼは初めて口にした。
そして林檎のバターは予想以上だった。
すりつぶした林檎の食感が、ミルキーなバターに負けていない。
芳醇な林檎の風味とバターのコクが相まって、信じられないほど美味しい。
夢中になってはぐはぐと食べているロゼを、ハリージュは複雑そうな顔で見つめている。
怒濤のようだった今日一日を思い返していたのだ。
――アズム伯爵家は、代々マルジャン国を支える貴族として、この国の貴族名鑑に名を連ねている。
そして、伯爵家の三男として生まれたハリージュは、二十歳を迎えると騎士として叙爵された。
近衛騎士である彼の主な仕事は、王女ビッラウラの警護である。
ビッラウラはまだ少女と言ってもいい年齢だが、品性が有り、慈愛の心を持ち、礼節を守る素晴らしい王女であった。
ビッラウラの兄に当たる第二王子とハリージュは、幼馴染みでもある。それ故、幼い頃から知っているビッラウラを、僭越だと思えど妹のように大事にしてきた。
ビッラウラも、血を分けた兄であるかのように頼ってくれたが、甘えられたことはなかった。あの日までは。
『頼む、ハリージュ。一生に一度の願いじゃ。王女の命令としてではなく、そなたを兄と慕うラウラの頼みと思って、どうか聞いて欲しい』
ビッラウラは、少女のように折れそうな心で祈りながら、王女としての覚悟を滲ませてハリージュに頼んだ。
どうか、惚れ薬を手に入れて欲しい――と。
人の心を歪める薬など、人の道を曲げてしまうだけだ。
そんな薬を、ハリージュは決して王女に使って欲しくなかった。
だがこれまで、ただの一度も、どれほど小さな我が儘でさえ言うことのなかったビッラウラの切なる願いを、切り捨てる事も出来なかった。
王女付きの自分が魔女の元を訪れることで、王女を醜聞に塗れさせるかもしれない。ハリージュは人目を忍んで、魔女を訪れた。
魔女の家は森の奥深くで、その場所も定かではない。散々迷った末に辿り着いた魔女の庵は、強い風が吹いただけで吹き飛んでしまうのではないかと思うほどのあばら屋だった。
そして、初めて会う魔女は、呆れるほど汚く暗い部屋に住んでいた。
いつもぶかぶかのローブを羽織り、大層胡散臭い注文でハリージュを遠ざける。
次第に魔女に対する不審感は増していくばかりだった。
公明正大に生きてきたハリージュにとって、何もかもが闇に包まれている魔女との接点など、皆無だった。
だから、水から上がる魔女を見た時、驚いた。
この湖には妖精が住んでいるのかと思った。それほどに現実感のない光景だった。
普段ほとんど日を浴びないのだろう。真っ白な肌は雪のように美しかった。宮廷で白粉をはたきまくっている貴婦人達が、羨ましがるに違いない。
淡い薄紅色の髪に纏わり付いた雫がキラキラと輝き、ハリージュは視線を剥がすことができなかった。
老婆だと思っていたわけでは無い。
ただ、これほどまでに若い女性だとも思っていなかった。
こんなに若い女性が一人で生活しているなんていう前提を、ハリージュは思い描いたことさえなかったのだ。
妖精ではなく魔女だと気付いた頃には、彼女もこちらの存在に気付いたようだった。
普段はローブで隠れている、深緑色の瞳があらんかぎりに見開かれていた。
その時のことは、本当に申し訳なかったと思っている。
あまりにも唖然としすぎて、しっかりばっちり見てしまったからだ。
いつもあれほど冷静な魔女が、服毒死をはかろうとするほど動転するとも思わずに。
だがそのおかげで、ハリージュは色々と知った。
魔女が、妙齢の女性だったこと。
こんなにも胡散臭いのに、魔女は嘘をつけないこと。
あの無理難題な注文は全て、ハリージュを遠ざけるものではなく、製薬に必要なこと。
大金をせしめるせこい魔女だと思っていたが、ほぼ材料代にかわり、ドレスさえ満足に仕立てられないこと。
何を考えているかわからない魔女が、恥じらうただの女の子だったこと。
――そして、林檎のバターを塗ったパンを、とても気に入ったこと。
「……魔女殿は、一人でお住まいなのか?」
街で焼きたてのパンを見つけた時、ここに持って来ようと思ったのは、あの鶏ガラのような魔女が、惚れ薬を作り終える前に死んでしまうのではないかと危惧したからだ。
餓死寸前、というわけではなかったが、口に含んだパンのせいでふっくらと膨らんだ魔女の林檎色のほっぺを見ていたら、持ってきて正解だったと思えた。
彼女の今の格好を思えば、そうそうに暇すべきだとはわかっていた。
だが、落ち込む姿があまりに小さくて、このまま一人にしてしまったら死んでしまうのではないかと不安になった。
持ってきていたパンのことを思い出し慌てて差し出したのだが、気に入ってくれたようでほっとしている。
指に垂れた林檎バターを、行儀悪くも舌でなめ取っていた魔女が、ハリージュを見た。
「へ? ええ。一人で暮らしています」
「あまりにも危険ではないか?」
若い女性のひとり暮らしは、それだけで危険が跳ね上がる。
胡散臭い年老いた魔女の家に忍び込む輩は少なくとも、可憐な少女のひとり暮らしの家に忍び込む不逞の輩は、掃いて捨てるほどいるだろう。
魔女はパチパチと瞬きをした。
何故今さらそんなことを聞いてくるんだ、とでも言いたげだ。
今の今まで、彼女の年齢を誤解していたなどとは言えず、ハリージュは利口にも沈黙を守った。
「ええと……そうですね。森の岸にお客様が来ると、わかるようにしているんです。ひっそりとやっていますし、それほどお客さんもいませんから。怪しそうな人が来たら、すぐに床下に隠れてますし」
口ぶりから、何度かそう言った経験があるように思えた。
真っ暗な地下で、震えながら時が過ぎるのを待っている魔女を思い浮かべ、ハリージュはひどく同情した。
「……ずっと、か?」
「はい。ずっと」
魔女はなんのてらいも無く頷いた。
それが当たり前のように。一人で生き、自分の身を守るのは自分だけであることが、当然だとでも言うように。
ハリージュは悩んだが、ついに返す言葉を見つけることが出来なかった。
そんなのは間違えている。
まだ年若い娘は、誰かに守護されるべきだ。
後見人に世話になるなり、持参金を用意して貰い、結婚させてもらうなり。
女性は守られるべき存在だ。ハリージュはそう育てられてきた。
そう思えども、なんの責任も関わりもない自分に、何が言えただろう。
だからハリージュは、二切れ目のパンにまた林檎バターを塗って魔女に差し出した。
一枚目よりも、たっぷりと塗って。
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