第69話
「結婚式、したかったな」
雲一つ無い空を見上げながら、ロゼはぽつりと呟いた。
「なんだ? 魔女よ、何か返事をしたな?」
「いいえ、貴方には何も」
何だと言うのだ! と怒りの声がヤシュムから返ってくる。
しかしロゼはもう聞いていなかった。自身の唇を指先でなぞる。
漏れ出た言葉に、ただただ驚いていた。
特に式を楽しみにしていたつもりはなかった。ハリージュとの結婚に必要なものだから、ただこなすだけだと思っていた。
煌びやかなドレスは着ることに戸惑っていたし、高いヒールも苦痛だと思っていた。
だがその全てを、実は自分は楽しみにしていたのだと、初めて知った。
涙が顎がらポトリと落ちる。
どんどんと止まらなくなっていって、ロゼは林檎を無理矢理囓った。
どれ程咀嚼することに夢中になっても、涙は止まらない。
ついにロゼは林檎を手放した。
窓から林檎が落ちる。
際限なく溢れ出る涙を、両手の平で必至に拭う。
「ッ――」
その時、痛みを堪えるような僅かな声がロゼの耳に届いた。ロゼの体がピタリと動きを止める。
聞き覚えのある声だった。誰よりも耳に馴染むようになった声だった。
息を呑んで、ロゼは恐る恐る、下を見た。
「しー」
すぐそこに、男がいた。
断崖絶壁の塔の壁に、しがみついている。
微かな吐息のような音だけで、ロゼに静かにしているように告げたのは、ハリージュだった。
呼吸の仕方も忘れたロゼは、呆気にとられて瞬きをした。
たった今、もう二度と会えない覚悟をした男を前にして、思考がついて行かない。
ハリージュは小さな鉄釘のようなものを煉瓦の隙間に刺しながら、足場を作って塔を上っていたようだ。
瞬きしたロゼの瞳から涙が零れ、ハリージュの頬にぽたりと落ちた。
その涙が引き金になったように、勢いよくハリージュが窓枠に手をかけた。そして渾身の力で自身の体を持ち上げる。
窓の枠に立ったハリージュは、そのままするりと塔の中に入ってきた。
「ただいまダーリン。帰りが遅くなって、悪かった」
言うが早いか、ハリージュはぎゅっとロゼを抱きしめた。
ロゼはパクパクと口を動かす。
何故この状況で冗談を挟むのか、彼の笑いのポイントがロゼには一切理解できなかった。
突然のハリージュの登場に驚いたのは、ロゼだけでは無かった。
ヤシュムと、腰の剣に手をかけたゲオネスも、目を見開いてハリージュを見ている。
「……なっ、ハリージュ! お前はトカゲか!」
「何を言ってるんだ。どこからどう見ても人間だろう」
呆れた顔で突っ込まれ、ヤシュムは「いやいやいや」と頭を押さえながら呟いた。
「そもそもお前、今は王都にいないはずじゃ――」
「そうだ。あんたに緊急だと言われた緊急性の全く無い仕事場から、急いで戻ってきた。帰って来がてらに休暇届を押しつけてきたから、今は勤務時間外でもある。だからヤシュム、少し話をしよう。俺はかなり、怒っている」
ハリージュの怒気を肌で感じたのか、ヤシュムはゴクリと生唾を飲み込んだ。
「なんだ?」
「何故、俺の婚約者をこんな場所に閉じ込めた」
「理由あってのことだ」
「勿論、その理由を聞いている」
「――お前にも調べさせていた事件の真相が、”魔女の惚れ薬”だとわかったからだ」
「なるほど――ロゼ」
「へぁはい」
呆気にとられてハリージュに抱きしめられたまま、ヤシュムのやりとりを聞いていたロゼは、突然矛先がこちらに向いてびくりと体を震わせた。
「人が五人――」
「一人増えて、六人だ」
「人が六人、倒れている。”魔女の惚れ薬”のせいというのは、本当か?」
口を開き、いつものように湾曲に物事を言おうとしていた自分に気付く。
魔女らしい遠回しな言葉は、今はきっと適していない。ロゼはできる限りきっぱりと告げた。
「わかりません。ですが確実に、私は”魔女の惚れ薬”に関与していません」
「わかった」
太い腕が、抱きしめる力を強めた。
ロゼは大きな声を上げて、泣いてしまうかと思った。
こんなに安心する腕も、言葉も、初めてだった。ハリージュは信じてくれた。ロゼがとっくに諦めていた「信じて欲しい」という気持ちを、伝えることなんかとうに諦めていた言葉を、聞いてくれた。
ロゼは魔女だ。魔女は嘘をつけない。
だからハリージュは信じてくれた。
これまでロゼが抱えていた弱点を、ハリージュは長所にしてくれた。
こんな風に大切な人から信じてもらえることに繋がるなんて、これまで生きてきて考えたことさえ無かった。
ロゼの声は、ハリージュに届いていた。
「……野暮なことを聞くが、警備はどうした」
「同僚だからな。事情を話して、少しだけ散歩してもらってる」
「あのなぁ……」
私情を挟んだハリージュにも、そして警備をしていた騎士にも頭を抱えたヤシュムに、ハリージュは顔を向けた。
「あのなぁ」
ハリージュが言う。ヤシュムと同じ話し方だった。
これまで彼らが、兄弟のように、親友のように、共に同じ時間を過ごしてきたことがわかるほど、その話し方は似ていた。
「好いた女を守ることを、あんたの騎士が止めるはず無いだろ」
二の句が継げなくなったのはヤシュムだった。
ヤシュムが信じる高潔さを、ヤシュムの騎士達も信じている。ヤシュムは同じ志を持つ騎士達と共にいるのだ。
つまりヤシュム自身も――にわかには信じがたいが――そういう気質を備えているのだろう。
「……お前はっ、減らず口をべらべらと……そもそも何故、ここにいる!」
「ロゼの異変に気付いたうちの使用人が、すぐに俺に知らせてくれたんだ。なにかあった場合の行動は、明確に指示してあったからな」
抱きしめられている腕の隙間から、ロゼはハリージュの顔を見た。久しぶりに見る彼は、酷くやつれているように思えた。ヤシュムの与えた任務に加え、ロゼのために奔走してくれていたのだろう。
「ハリージュよ。ことを理解しているか? 六人が倒れている。魔女による薬で!」
「ロゼは否定しただろう。無実無根だ」
「片腹痛い――そんな馬鹿な話を信じたとでも?」
「信じるのは当然だろう」
「何故だ」
「愛しているからだ」
ハリージュの声は何処までも真剣だった。
だからこそ、ロゼは両手で顔を覆った。
ヤシュムはまるで飛んできた鳥に頭を突き刺されたかのような、奇妙な格好で固まっている。
のろのろと動き出したヤシュムは、そっと袖を捲ってハリージュに見せつける。
「……見えるかハリージュ。これ、サブイボ」
「ああ、なんだ。寂しかったのか。気付かずに悪かった。もちろんあんたも愛している」
今度はロゼにサブイボが立った。全身が毛羽立つほどの豪快なサブイボだった。
「喧しい! ちゃんちゃらおかしいわ! そもそも誰のためを思って、式前に内々に処理しようと思っているのか――!」
「ああ、それでここか。ここは代々の王妃に受け継がれる、王妃様直轄の森だからな」
現王妃はヤシュムの母である。秘密裏に事を済ませたいのならば、便利な土地だろう。
しかし、王妃直轄の場所に、王子の意向を無視して侵入してきたとなれば、事態は更に大事だ。愛国心や、忠誠心、騎士としての信念に背く行為ととられても仕方が無い。
こんな短時間で、ロゼでさえ簡単に考えつくことだ。ハリージュが考えていないわけが無い。
そんなことをしでかした理由を、ハリージュは「愛」と答えた。
愛とはそれほどに凄いものなのだろうか。義理堅く誠実なハリージュが、身勝手で、道理の通らない真似をしてしまうほどに。
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