第一章 湖の善き魔女

第3話


 彼に出会った日のことを、ロゼはよく覚えている。


 ――あれは、ロゼの祖母が死んですぐのことだった。


 駆け出しの魔女だったロゼは、製薬に失敗した。

 それ自体は当時、特別珍しいことでもなかった。

 ただ、材料の補充のために、街に一人で出かけるのは、初めてのことだった。


 ロゼの住む森のすぐそばには、王都がある。

 森も王都の一部なのかもしれないが、ロゼ自身にも、歴代の魔女にも、そういった認識はなかった。


 街は、笑顔と活気、そして森で過ごしているロゼには信じられないほどの、音に溢れている。

 形の揃えられた石を敷き詰めた街道は、びっくりするほどに歩きやすい。

 煉瓦を積み重ねて出来た家が整然と並び、その前にはテントが軒を連ねていた。テントの中には、布袋に入った穀物や、籠に入った色とりどりの野菜が売られている。


 兎や狐を吊したテントの中では、店主と客が煙管を寄せ合って会話をしていた。

 馬車は信じられないほど速いスピードで街道を走り抜け、その後ろを子供達が面白がってついてまわる。


 皆いきいきとしていたが、ロゼにはその光景を楽しむ余裕はなかった。

 胸は喜びよりも不安に満ちていたからだ。


 その頃のロゼは、祖母から家事も仕事も引き継いだばかりで、心身共に困憊していた。

 依頼人からは信頼を得られず、不慣れな家事も溜っていく一方。


 これまで、街に来る時はいつも、魔女の師でもある祖母が導いてくれていた。


 森のことなら、誰よりも知っている自信がある。

 しかし、赤煉瓦で出来た似たような街並みは、ロゼにとってどれも同じにしか見えない。


 王都の街には沢山の人がいたが、誰もが忙しそうだった。

 それに皆、色鮮やかでおしゃれな服を着ている。祖母と二人だった時には気にもならなかったのに、母のお下がりのドレスを着ている自分が、少しだけ恥ずかしくもあった。そんな自分がまた情けなくて、足取りが重くなる。


 人に声をかけることもできず、祖母と行ったことがある店を自力で探していると、ふと会話が耳に入ってきた。


「そういや、知ってたか! 湖の魔女が死んだって話!」

 立ち止まり、顔を向ける。


 どうやら軽食屋のようだ。嗅いだことも無い、いい匂いがした。

 屋外に設置されたテーブル席に、顔を赤らめた客が座っている。

 手に大きなジョッキを持った客同士が、叫びあうように話していた。


「なんだって! あの婆さん、俺がガキん頃からいたぞ!」

「二百年は生きてるって話だ! てっきり、あと百年くらいは生きるもんだと思ってたけどな!」


 流石の祖母でも、二百は生きていない。

 きっと祖母の母や祖母のことを混同してしまっているのだろう。

 訂正しに行こうと足を踏み出したロゼだったが、次の瞬間、ピタリと動きを止めた。


「まぁなんにせよ、これで安心だわな!」


 聞こえた言葉が、信じられなかった。

 心臓がバクバクと鳴りはじめる。


「近所に魔女が住み着いてるってだけで、街の評判は下がるしなぁ~」

「何があるかわかったもんじゃないからって、子供にも森には絶対に入るなと言ってたが……」

「これからはもう、心配しなくてすむ!」

 客達は笑い声をあげながら、心底嬉しそうに話している。


 ロゼは目眩を感じた。


 目の前が真っ暗になり、どうやって今まで立っていたかも、わからなくなりそうだった。


 魔女が疎まれていることも、森に寄りつかないようにされていたことも、死んで喜ばれるほど恐れられていることも、ロゼは知らなかった。


 ロゼはいかに、今まで自分が浮き世離れした世界にいたのかを知った。


 祖母もこのような悪意を知っていたのだろうか。

 考えるだけで、怖気立つ。


 祖母が知っていたのなら、祖母はずっとそれに一人で耐え、ロゼに悟らせないようにしていたのだ。


 幼い自分は祖母の裾に隠れ、守られていたことも知らずにいたのかもしれない。


「人が死んで安心したとは、胸くそが悪い」


 凍り付いたように立ち尽くしていると、鋭い声がロゼの耳に届いた。

 はっと顔を上げた拍子に、涙が一粒こぼれ落ちる。


 笑い合っていた客の隣のテーブルで、食事をしていた男性が言ったようだ。その顔は随分と険しく、言葉通りの悪感情を表していた。


「店主、勘定を」

「へ、へい」

 男性の声かけに、店の主人が転びそうになりながら、カウンターから出てくる。


 先ほどまで笑い合っていた客は、男性の茶々入れにムッとしたのだろう。それを隠そうともせず、男性に話しかける。


「人って兄さん……死んだのは魔女だぞ」


「だからなんだ。魔女も人には違いない」


 すごんでいた客だったが、当然のように返され、口ごもった。

 まるで、魔女が人であるという可能性を、初めて考えさせられたかのような、決まり悪そうな表情だった。


「あんたは魔女に、何か悪さをされたことがあるのか」

「いや……」


「俺なら、自分が死んだことを喜んだ奴など、呪ってやるけどな。彼女が善き魔女であることを祈るんだな」

 男性は厳しい目で客を睨むと、椅子に掛けてあったマントを手に取って立ち上がった。


 店の外に立っていたロゼと目が合う。

 一瞬だけ見つめられたその瞳は、冬の雪にさした影のような青色だった。


 息を呑み、お礼を言うべきか身構える。

 だが男性は、ロゼなど興味なさ気に通り過ぎた。


 街に出かける時は、魔女の証しでもある暗い色のローブを脱いでいる。祖母が生きていた頃からの習慣だ。

 喪中なために黒いハンカチだけは頭に巻いていたが、それだけではロゼを魔女だとは想像出来るはずも無い。


 マントを肩に羽織った男性が、颯爽と歩き始める。


 慌てて振り返ると、目も冴えるような藍色が、彼の背で波打っていた。


「おいっ、ハリージュ!」

「アズム殿、お待ちください!」


 同じテーブルについていた他の男性達も、ハリージュと呼ばれた男に続いて立ち上がる。

 手に取ったマントは、みな同じ藍色だった。

 客の表情が、恐れの色に染まる。


「お、おい! 騎士団だ!」

「怒らせたんじゃないだろうな! 俺たちは無関係だぞ!」

「アズムっていや、ハイズラーンの領主がそんな名前だったんじゃないか?」


 店内がざわついていたが、ロゼはもう聞いていなかった。

 藍色のマントを翻しながら歩く、ハリージュの背をずっと見つめていたからだ。


「ハリージュ・アズム……」


 聞いたばかりの彼の名前を呟くと、胸が締め付けられた。




 その日ロゼは、恋に落ちた。


 決して手が届くことのない、相手だった。



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