一章 戸惑いの魔女
第36話
夜は早く眠り、朝は日の出前に目覚める。
アズム邸に世話になり始めてからというもの、ロゼは真人間のように暮らしていた。庵に畑を残しているため、どうしても朝早くに屋敷を出なければならないからだ。
また、夜の来客に備える必要がないのもよかった。
強盗に入られてから夜の客を断るようになったとはいえ、桟橋に人が来れば鐘が鳴るし、鐘が鳴ればロゼは目が覚めるように出来ている。
夜中に人や獣が鳴らす鐘の音に起こされることなく、安眠できる幸せを知った。
屋敷と庵の往復は、屋敷で管理している馬車で送迎してもらえることになった。
噂に聞く舞踏会や晩餐会や園遊会を強制されることも無く、昼は庵、夜は屋敷と、気ままに暮らしている。
***
まだ日も昇らぬような朝、パンを焼くにおいで目が覚める。
なんと贅沢な朝だ。
未だかつて触ったこともないほど柔らかな布団の中で、ロゼはもぞもぞと身を捩ると、蓑虫のように顔を出した。
くんくんと鼻を動かし、鼻孔の隅々まで小麦の香りを広げる。
ロゼはいつも昼食に持っていくパンを用意してもらっている。台所仕事が得意なターラは、なんとパンまで家で焼いてのける。
その日に焼くパンの種類によって、ハムを挟んでくれたり、ジャムを塗ってくれていたり様々だが、ロゼは何もついていないパンもそれはそれで好きだった。
今日はなんのパンだろう。口の端が緩む。
もうレタス生活には戻れないことは、はっきりと悟っていた。
気が済むまで匂いを吸い込むと、ロゼはゆっくりとベッドから抜け出した。今日する作業を頭の中で思い描きながら、クローゼットを開ける。
ポールには、ハリージュによって、ロゼのための衣装がずらりと並んでいた。
どれも華美ではないが、質のいい品であった。しっかりと誂えられていて、森での生活にも耐えられそうだ。スカートはふんわりと広がらず、ストンと落ちた形が、この国の主流だ。
これまでロゼは、普段着を一着しか持っていなかった。と言っても、困窮していたわけではない。
平民にとってそれはさほど珍しい事でも無い上に、魔女はローブを羽織るので、全く困ってはいなかったのだ。
必要ないと思っていたが、こうして美しいドレスを見ると、ロゼの心は女の子らしく躍った。それが好きな人から贈られたものだと思えば、尚更である。
一着一着、ロゼのことを思いながら揃えてくれたのだろう。
――バフン
空気が抜けるような、軽い音が鳴る。
羞恥に耐えきれず、ロゼがドレスにパンチを入れたのだ。八つ当たりをされたローブは、そよ風に吹かれた程度にふわりと揺れる。
好きな人からの贈り物をしばしサンドバッグにしたところで、ロゼは手の甲で汗を拭った。まだ春先だというのに、嫌な汗をかいている。
張り切ってお洒落なんかしちゃってまあ、とハリージュや他の人達に思われるのは非常に恥ずかしいが「これしか無いんだからしょうがない」と己に言い訳すれば着られる気がする。裾が擦り切れ、シミだらけになっていた母のお古のドレスは既に、ウエスと化している。
「……よし、着る」
己を奮い立たせるように、ロゼはハンガーをぐわしと勢いよく握る。
毎朝こうして、可愛らしいドレスと格闘するのが、数少ないアズム邸でのロゼの日課となっていた。
ドレスは、グレーがかった紫みのある青色にした。
春の青空とよく似た色だ。
袖の部分に刺繍があるものの、飾り気も少なく、落ち着いた色合いのドレスは、しゃれっ気を恥ずかしく感じるロゼにとって選びやすかった。
申し訳程度に髪をブラシでとくと、襟元から頭を突っ込んで、腕を通す。胸の下をリボンで絞ったところで、ロゼは鏡を見た。
だいぶ、襟元がびろんとしている。こういう服なのだろうかと、ロゼは襟元を引っ張った。
びろびろと動く。この情けなさでは、だいぶ心許ない。なにしろ魔女は一日中ひっきりなしに動くのだ。こんなにびろびろでは、動く度に服が脱げかけてしまうだろう。
なんなのだろうと、襟首を触ると、ボタンがあることに気付いた。
「……ボタンが、後ろに……?!」
ロゼは魔女だ。
普通の魔女は、誰かに着替えを手伝ってもらったりしない。
祖母も着替えは一人でしていたし、母もきっとそうだっただろう。
後ろにボタンがある服が存在するということを、ロゼは今日初めて知った。
ロゼは鏡を見た。情けなく眉が下がっている。着替えるのは非常に面倒臭い。
「……」
鏡の中の自分を無言で見つめる。
そして、留められるところまでなんとか留めると、ロゼはローブを羽織った。
どうせこのローブを脱ぐことはない。ボタンが留められていないことなど、誰にもばれないだろう。
初日こそ、街を突っ切ってきたためにローブを脱いでいたが、屋敷の中では普段通りローブを着て生活している。ローブは魔女の秘密を守るためにも、ロゼが人と接することに慣れるためにも、必要と言えた。
ロゼがドアを開けると、突然開いたドアに驚いたのか、「きゃっ」と声が聞こえた。
可愛らしく驚いたのは、ロゼと同じ日にこの屋敷にやってきたメイド、モナだった。
この屋敷には五人の使用人が勤めているが、執事のサフィーナと、メイドのモナのみが住み込みで働いている。食事を一手に引き受けるターラは、朝が早いが、夜は早めに家へと帰っているようだ。
元々勤めていたアズム邸の使用人達には、ロゼはすんなりと受け入れられた。
最初に新入りと勘違いされていたのが功を奏したらしい。また、ハリージュが選んだ娘だからと言う信頼感と、少しだけ交流のあったサフィーナがロゼに親身になっているのも大きいようだ。
人は、人の評価で人の立ち位置を決める。それがマイナスに働くことばかりだったロゼは、こんな風に、自分もまるで人の一員であるかのように扱われ、少しばかりの戸惑いも感じていた。
「あっ、ま――お、お嬢様……!」
だが、モナは違った。
彼女はロゼを見る度に、明らかに怯えた様子を見せた。他の使用人と違い、ハリージュへの信頼もまだ生まれていないのだろう。
侮蔑の視線を送られたり、嫌がらせを受けるわけではないのだが、毎度顔を青ざめられ、実は地味に傷ついている。
「……おはようございます。何か手は必要でしょうか?」
理性で恐怖を抑えたモナは、震える声でロゼに尋ねた。
こんなに怯えている相手に、襟のボタンを留めてくれなんて頼むのも酷だろう。
「いえ」
「では、ご不在の間に、お部屋のお片付けをさせていただきます」
「よろしくお願いします」
人と、干渉し合わないことは慣れている。
ぺこりとロゼが頭を下げると、モナもそそくさと立ち去った。
モナの後ろ姿を何と無しに眺めていると、背後から声がかかる。
「いつもあんな感じか?」
びっくりして、ロゼはローブの中で林檎一つ分は飛び上がった。
おかげでローブの裾を踏み、ずるりとこけそうになるが、後ろから伸びてきた腕がロゼの腰を掴んで転倒を防いだ。
「っおい、遊ぶな。危ないだろう」
勿論、遊んでいるつもりはない。
ロゼは声の主を振り返った。そこには、ロゼが想像した通りハリージュがいた。
昇天するように、ロゼの体から力が抜ける。
自然に任せるがままに、すぅーっ……と目を閉じた。
アズム邸に厄介になり始めてしばらく経つが、寛いだ格好をしたハリージュを見るのは初めてだった。
再び目を開けられる気がしなかったが、脳裏にバッチリと焼き付けてしまったせいで、目を閉じているのにその輝きに身悶えてしまう。
揃えられていない前髪、気だるそうな目元、髭を剃ったばかりの清潔な顎に、いつもより無防備な襟元。一瞬でロゼが食らうには、少々刺激が強すぎる。
さらに、目を閉じているせいで他の部分が敏感になり、髭を剃るために使った石鹸の匂いや、腰を抱いている手の感触がまざまざと感じられる。
ロゼは努めて慎重に口元が緩まないよう気を配りながら、両手を胸元で組んだ。
「……今度は何の遊びだ?」
「神と会合した信徒の気分はこんな感じなのかと、浸っておりました」
「そうか」
ハリージュにしては歯切れの悪い返事だった。
きっと意味を理解できなかったのだろう。
仕方が無い。ハリージュが客観的に自分の姿を見ることができない限り、このロゼの感じる尊みを共有できる未来は来ないだろう。
しかしながら本日、ハリージュが在宅しているのならば、誰かにそう教えてもらいたかった。
いつもよりもう少し早めにベッドから抜け出して、もう少し早めにドレスを選んだだろう。いやそれどころか、もう少し早めに目を覚ますことだって厭わなかったかも知れない。
不規則なハリージュの勤務時間は、現場でより不規則になるため、誰にも予想がつかないことだとは理解していても、思わずにはいられない。
そっとハリージュの腕からすり抜けたロゼは、壁に寄り添った。
心の平穏を取り戻すためにも、今はただ、この凹凸のない無機質な
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